第28話 精霊の古い記憶
聖樹は朝霧の中に佇んでいた。
樹齢数百年の幹は苔に覆われ、太い根が地面を這って祠を包み込んでいる。霧が枝の間を流れ、翡翠色の光の粒が静かに漂っていた。
ミーリアは聖樹の前で足を止めた。何かに呼ばれた気がした。朝の薬草園にいる時、胸の奥がきゅっと引かれるような感覚があった。星脈の脈動とは違う。もっと古い、もっと深い場所からの呼びかけ。
「フェリクスさん、聖樹に行ってもいいですか」
「ついていく」
フェリクスは短く答え、山刀を腰に差した。山守の足取りで霧の中を先導する。ミーリアがその後を歩き、フィルが二人の頭上を旋回した。
* * *
聖樹の根元に辿り着くと、空気が変わった。
「足元を見ろ。根が張ってる」
「はい」
霧が薄くなり、木漏れ日が幹を照らしている。苔の匂いと、土の匂い。それに混じって、微かに甘い花の香り。精霊の気配が濃い。
フィルが翡翠色の光を収め、静かにミーリアの肩に止まった。いつもの落ち着きのない動きが消えている。
〈来た。待ってた〉
「待ってた? 誰が?」
〈ずっと待ってた。この樹が〉
「この樹が……わたしを?」
フィルは答えず、聖樹の幹を見つめていた。
ミーリアは一歩、また一歩と聖樹に近づいた。幹の表面に手を伸ばす。指先が苔に触れた瞬間、温もりが伝わってきた。生きている樹の温度ではない。もっと奥から、もっと古い場所から湧き上がる熱。
聖樹の精霊が姿を見せた。
幹の奥から、老婆のシルエットがゆっくりと浮かび上がる。輪郭は曖昧で、光と影の境目のような存在。けれど目だけがはっきりしていた。深い深い琥珀色の目が、ミーリアをじっと見つめている。
前回は遠くから見つめるだけだった。今回は違う。
老婆が手を伸ばした。
〈触れて〉
声は震えていた。百年の時間を溜め込んだような、重い震え。
ミーリアは幹に両手を当てた。
* * *
視界が白く弾けた。
手のひらが熱い。苔の下で何かが打っている。その拍が指先から肘へ、肩へと上がってきた。
映像が流れ込んでくる。
谷間の風景。グリュンハイムの、今と同じ谷。けれど建物が少なく、畑が広い。百年前の風景。空が高く、星脈の光が地面の至るところから噴き出していた。
一人の女性が大地に手を当てていた。
長い銀色の髪。白い法衣。背は高く、凛とした横顔。その手の下で、白銀の光が放射状に広がっている。枯れた草が起き上がり、花が咲き、土が息を吹き返していく。
その光の色に見覚えがあった。自分の手のひらから出るものと、同じだった。
「この人……わたしと、同じ」
映像の中の女性が顔を上げた。
涙を流していた。
光を放ちながら、大地を蘇らせながら、その人は泣いていた。唇が何かを呟いている。声は聞こえない。けれど唇の動きが読めた。
ごめんなさい。
誰に向けた言葉だろう。大地に。星脈に。それとも、まだ生まれていない誰かに。
映像が途切れた。
色が消え、音が消え、白い光だけが残った。その光の中に、感情だけが漂っていた。深い悲しみと、それを超える強い決意。この土地を守るという、揺るがない覚悟。
ミーリアの頬を涙が伝った。
* * *
聖樹から手を離すと、膝が折れかけた。
フェリクスの腕がミーリアの肩を支えた。
「立てるか」
「……はい」
「何か視たのか」
ミーリアは頷いた。声がすぐに出てこなかった。涙を手の甲で拭い、息を整える。
「百年前の……女性が見えました。この谷で、わたしと同じ力を使っていました」
「大聖女アリーシアか」
「たぶん。銀色の髪の、綺麗な方でした」
「背は」
「わたしより高くて、白い法衣を着ていました。髪はまとめていませんでした」
「教会の絵と同じだ」
ミーリアは聖樹を見上げた。老婆のシルエットはまだ微かに見えている。琥珀色の目がミーリアを見つめ、静かに瞬いた。
〈思い出して〉
「わたしが、ですか」
〈あなたが〉
精霊の声は掠れていた。百年分の記憶を抱え続けた声だった。
「あの方は……泣いていました」
フェリクスの手がミーリアの肩から離れなかった。
「泣いていた?」
「はい。大地を蘇らせながら、ごめんなさいって。何に謝っていたのか、わたしにはわかりません。でも……とても強い方でした。泣きながらでも、手を止めなかった」
「……そうか」
フェリクスは黙っていた。しばらくして、低い声で言った。
「百年前の大聖女と同じ力を持つお前が、うちの村にいる」
「……偶然でしょうか」
「偶然かどうかは、俺にはわからん。だが——」
フェリクスがミーリアの目を見た。琥珀色の瞳に、朝の光が映っている。
「お前がここにいることは、俺には偶然に見えない」
ミーリアの胸がどくりと鳴った。耳の後ろまで熱が上がってくる。
「フェリクスさん……」
「帰るぞ。お前、顔色が悪い」
フェリクスが先に歩き出した。いつもの無愛想な声に戻っている。ミーリアは頬に手を当てた。指は冷たいのに、頬のほうが熱かった。
* * *
帰り道、ミーリアは何度も振り返った。
聖樹の方角。霧が立ち込めて幹は見えないが、精霊の気配はまだ感じる。百年前の大聖女アリーシア。同じ力を使い、同じように大地に手を当て、泣いていた。
あの人は何を守ろうとしていたのだろう。何に「ごめんなさい」と言っていたのだろう。
「フェリクスさん。大聖女アリーシアは、最後にどうなったんですか」
「百年前の大崩落で命を捧げたと伝えられている。封印を施すために」
「命を……」
「谷が裂けて、地面に手を当てられる者があの人しかいなかった。そう書物にある」
「その方は、それを知っていて来たんですか」
「知っていて来た、と書いてある」
ミーリアの足が止まった。霧が頬に冷たく触れた。
自分と同じ力を持った女性が、百年前にこの土地で命を捧げた。その力は自分に似ていた。もし封印がまた必要になったら、自分にも同じことが求められるのだろうか。
「……考えるな」
フェリクスの声が、ミーリアの思考を遮った。
「百年前の話だ。今は違う」
「でも——」
「お前は今ここにいる。それだけ考えろ」
フェリクスが三歩先で立ち止まった。背を向けたまま、山刀の柄に手をかけている。
〈また来て〉
聖樹の精霊の声が、風に乗って微かに届いた。
「……はい。また来ます」
ミーリアが小さく呟いた。
「明日でもいいですか」
〈いつでも〉
フェリクスが振り返り、歩幅を落とした。ミーリアが追いつくのを待ってから、並んで歩く。二人の足元を、テラがころころと転がりながらついてきた。
グリュンハイムの谷間に戻った時、聖樹の根元ではまだ地面が光を放ち続けていた。白銀の微かな脈動。ミーリアが触れたことで目覚めた星脈の欠片が、百年ぶりに息を吹き返したかのように。
その光はやがて薄れ、消えるだろう。
霧の奥で、翡翠色の粒がひとつ瞬いた。少し置いて、もうひとつ瞬いた。三つ目は、まだ光らない。




