第27話 薬草採取デート
朝の空気が冷たい。
山の稜線に朝日が差し始めた頃、フェリクスが薬草園の柵の前に立っていた。いつもの差し入れ——山菜の包みを片手に持ち、もう片方の手は外套のポケットに突っ込んでいる。
「……ミーリア」
名前を呼ばれて、ミーリアは顔を上げた。フェリクスが名前を呼ぶのは珍しい。
「はい、なんでしょう」
「山の奥に珍しい薬草がある。見たことのない種類だ。お前なら何かわかるかもしれない」
「珍しい薬草?」
「昨日の見回りで見つけた。高い場所に生えている。一人では採れない」
ミーリアの目が輝いた。
「行きたいです! どんな形の葉ですか? 花は咲いてましたか?」
「……白い。小さい花」
「白くて小さい花。標高が高い場所。もしかして、万能解毒薬の材料になる高山薬草かもしれません」
ミーリアが支度を始めると、薬草園の奥からロッテの声が飛んできた。
「あんたたち、二人で山に行くのかい」
「はい。フェリクスさんが珍しい薬草を見つけたそうで」
「ふうん。薬草ね」
ロッテが乾燥棚の向こうからにやりと笑った。温泉宿の窓からマルタが顔を出していて、二人の視線が合う。
「薬草採取。二人きりで。山の中で」
マルタが指折り数えるように言った。
「それ、デートって言うんだよ」
ミーリアの首が傾いた。
「デート? いえ、薬草採取です」
「はいはい、薬草採取ね」
ロッテとマルタが同時に笑った。フェリクスは既に背を向けて歩き出しており、耳の先が赤いことに誰も気づかなかった。
* * *
山道は朝露に濡れていた。
フェリクスが先を歩き、ミーリアが後をついていく。木漏れ日が苔むした地面に斑模様を描き、鳥の声が枝の間を渡っていた。
「足元、気をつけろ。この先は石が滑る」
「はい」
フェリクスが差し出した手を取り、段差を越えた。掌が硬い。山仕事で鍛えられた手だった。
標高が上がると、木々の間隔が広がり、視界が開けた。グリュンハイムの谷間が眼下に広がっている。湯煙が立ち上り、小さな家々の屋根が朝日に光っていた。
「綺麗……」
「ああ。この山からの眺めが一番いい」
フェリクスがぽつりと言った。足を止め、同じ方角を見ている。
「子供の頃から、ここに来ると落ち着いた」
「フェリクスさん、子供の頃からこの山に?」
「物心ついた時には歩いてた。婆さんに連れられて」
「おばあさま……精霊の番人の」
「ああ」
フェリクスが歩き出した。背中越しに声が聞こえる。
「婆さんは言ってた。精霊に好かれる人間は、心が澄んでいる、と」
「心が、澄んでいる」
「俺には精霊の声が聴こえる。だが精霊が俺に懐くまで五年かかった。お前は来た日にフィルが寄ってきた」
ミーリアは返事に困った。自分の心が澄んでいるかどうか、自分ではわからない。
「えっと、わたしはただ……精霊さんたちが可愛いなって思っただけで」
「それだ」
「え?」
「そういうところだ。婆さんが言ってた意味が、最近わかる」
フェリクスの声は低かったが、刺のない柔らかさがあった。ミーリアの頬がほんのり温かくなった。
* * *
山の中腹を過ぎ、岩場が増えてきた頃、フェリクスが足を止めた。
「あそこだ」
岩の隙間から、白い小さな花が群生していた。肉厚の葉。灰緑色の茎。高山特有の乾いた風に揺れている。
ミーリアが駆け寄り、膝をついて葉を確かめた。指で表面を撫でると、ほのかな苦味を含んだ香りが立ち上る。
「これ……すごいです!」
「わかるのか」
「万能解毒薬の材料になる薬草です。えっと、正式な名前は知らないんですけど……なんでだろう、配合比率まで頭に浮かぶんです。この根を乾燥させて、粉末にして、三日間寝かせると——」
ミーリアが興奮して話し続けた。フェリクスは黙って聞いていた。ミーリアが薬草の話をする時の目は、星脈共鳴の時とは違う光を帯びている。純粋な好奇心と、見つけたものへの敬意。
「すみません、わたしばかり喋って。フェリクスさんに教えてもらった場所なのに」
「いい。続けろ」
「え?」
「お前が薬草の話をしてる時は、山が静かになる。精霊が聴いてる」
見ると、周囲の木の枝に小さな光の粒がいくつも集まっていた。名前のない小精霊たち。ミーリアの声に引き寄せられるように、静かに明滅している。
「精霊さんたちも、薬草に興味があるんですか?」
「お前の声に興味がある。精霊は嘘のない声が好きだ」
ミーリアは高山薬草を丁寧に採取した。根を傷つけないよう、指先で土を掘る。フェリクスが革袋を広げ、採取した薬草を包んでいく。二人の手が何度か触れた。そのたびにフェリクスの指がほんの少し強張り、すぐに元に戻った。
岩場の隅に腰を下ろし、フェリクスが水筒を差し出した。
「飲め。標高が高いと喉が渇く」
「ありがとうございます」
ミーリアが水を飲む間、フェリクスは山の向こうを見ていた。風が稜線を渡り、フェリクスの森緑の髪を揺らしている。
「フェリクスさんのおばあさまは、ここにも来ていたんですか」
「ああ。婆さんはこの岩場で薬草を干していた。風が強いから、乾燥が早い」
「精霊の番人をしながら、薬草師でもあったんですね」
「薬草師じゃない。山の恵みを人に渡す仲介人だと言ってた」
仲介人。山と人との間を繋ぐ人。ミーリアは自分が星脈と大地の間でやっていることを思い出した。似ている。
「わたしも、そういう人になりたいです。大地の声を聴いて、それを誰かに届ける」
フェリクスがミーリアを見た。琥珀色の目が微かに揺れた。
「……お前はもうなってる」
ミーリアは返す言葉が見つからず、革袋の中の薬草を撫でた。葉の手触りが掌に残る。この薬草で、また誰かを助けられる。
* * *
帰り道は西日が山肌を赤く染めていた。
革袋いっぱいの高山薬草を背負い、ミーリアは上機嫌だった。
「フェリクスさん、今日はありがとうございました。こんなに採れると思いませんでした」
「……また来るか」
「えっ」
「あの群生地は広い。今日は半分も採ってない」
ミーリアの顔がぱっと明るくなった。
「うん、また来たいです!」
返事の勢いにフェリクスが半歩たじろいだ。口元がほんの少しだけ緩んだのを、夕日が隠した。
フィルが二人の間を飛び回っていた。翡翠色の光が夕暮れの中で小さな弧を描く。
〈幸せ。幸せ〉
フィルの光が温かく脈打っている。ミーリアはその光を見て、にっこりと笑った。
「フィルさんもよかったね。いい薬草がたくさん見つかって」
フェリクスが足を止めた。ミーリアを見下ろし、何か言いかけて、口を閉じた。
フィルが彼の頭上でくるくると回り、翡翠色の光をひときわ強く放った。
〈違うのにー〉
その声はミーリアには届いていなかった。あるいは届いていても、薬草の嬉しさに紛れてしまったのかもしれない。
山道を下りながら、ミーリアは革袋の中身を確かめていた。万能解毒薬の調合が頭の中で組み上がっていく。
フェリクスは三歩後ろを歩いていた。ミーリアの背中を見つめ、目を逸らし、また見つめる。
その繰り返しを、山の精霊たちだけが見ていた。




