第26話 噂が走る
朝露が薬草の葉先に光っていた。
ミーリアは膝をつき、薬草の状態を一株ずつ確かめていた。昨日の星脈共鳴の後、畑の土は柔らかさを取り戻している。指で掘ると、黒い腐葉土の匂いが鼻をくすぐった。
〈元気。土、元気〉
テラが足元でころころと転がっている。拳大の土色の球体は光を明滅させ、朝からずっとはしゃいでいた。
「よかったね、テラさん。畑、元気になって」
ミーリアが微笑みかけると、テラが光を明滅させた。
フィルが翡翠色の軌跡を描いて上空から降りてきた。蝶の形をした精霊がミーリアの肩に止まり、羽をぱたぱたと揺らす。
〈人。来る。急いでる〉
「人?」
ミーリアが首を傾げた直後、畑の向こうから砂利を蹴る足音が聞こえた。
* * *
「ミーリアちゃん、大変だよ!」
息を切らして駆けてきたのは行商人のグスタフだった。荷馬車を村の入口に置いてきたのか、手ぶらのまま額の汗を拭っている。
「グスタフさん? どうしたんですか、そんなに慌てて」
「あんたの畑の話だよ。枯れた畑が一夜にして花畑になったって、もう大騒ぎだ」
ミーリアは目を瞬いた。
「えっと……それは、先日のカルスト村のことですか?」
「そうさ。マルセイドの交易商が広めちまった。『辺境の奇跡』だの『星の聖女』だの、尾ひれがついてる。帝都の商人仲間から問い合わせが三件来たよ」
グスタフが指を三本立てた。ミーリアの口が小さく開いたまま閉じない。
「三件……」
「しかも、一件は宮廷出入りの御用商人だ。噂の真偽を確かめろって上から言われてるんだと」
ロッテが乾燥棚の陰から顔を出した。
「聞こえたよ。あんたの話は声がでかいからね、グスタフ」
「ロッテさん、どうしよう。わたし、ただ手を当てただけなのに……」
「あんたが何をしたかは問題じゃないんだよ。世間がどう受け取るかだ」
ロッテの声は落ち着いていたが、目は笑っていなかった。乾燥棚の薬草を束ねる手が一瞬止まり、すぐに動き出す。
「まあ、いい薬草を作ってるのは事実だ。堂々としてな」
「でも……」
「堂々と、だよ」
ロッテの太い指がミーリアの肩を叩いた。重くて、温かい手だった。
グスタフが荷馬車に戻ろうとして、振り返った。
「そうだ、もう一つ。噂の中身がすごいんだ。『枯れた畑の中央に少女が座ったら、白銀の光が走って、枯れた麦が全部蘇った』って。一字一句こう広まってる」
「一字一句って……見てた人がいたんですか」
「カルスト村の農夫が、マルセイドの交易商に話したんだよ。交易商が酒場で喋って、そこにいた帝都への行商連中が持ち帰った。あとは雪崩だ」
ミーリアは両手を膝の上で握った。白銀の光。確かにあの時、瞳が白銀に染まったとフェリクスに言われた。だが、それが大陸中の噂になるなんて。
薬草園の向こうでは、村人たちがちらちらとこちらを見ていた。パン焼き窯の前で立ち話をしている女性たちが、ミーリアに気づいて手を振った。
「ミーリアさん、今日も薬草ありがとうね!」
「うちの息子の風邪、すっかり治ったよ!」
声は温かかった。この村の人たちはミーリアを受け入れてくれている。噂が広がっても、ここでの暮らしは変わらない。変わらないはずだ。
けれど遠くの空に、見慣れない鷹が一羽、旋回しているのが見えた。帝都からの伝書鳥かもしれないし、ただの野鳥かもしれない。ミーリアには判別がつかなかった。
* * *
昼前、フェリクスが山の見回りから戻ってきた。
薬草園の柵に背を預け、腕を組んでいる。琥珀色の目が遠くの山並みを見ていた。
「噂が広がると面倒だ」
「フェリクスさんも聞いたんですか」
「グスタフの声は山の上まで届く」
ミーリアは思わず笑いかけたが、フェリクスの横顔に笑みはなかった。
「帝都に知れたら厄介なことになる。使者が一度来ただろう。次は調査じゃ済まない」
「……そうですよね」
「だが、もう遅い。広まった噂は止められない」
フェリクスが柵から背を離し、ミーリアのほうを向いた。
「だから、備えろ。何が来ても対処できるように」
「備える……って、何をすればいいんでしょう」
「今まで通りだ。薬草を作れ。患者を診ろ。お前がここにいる理由を、お前自身が忘れるな」
短い言葉だった。けれど胸の奥に落ちて、すとんと収まった。
「……はい。わたし、薬草師ですから」
フェリクスが小さく頷いた。
フィルがミーリアの肩から飛び上がり、フェリクスの頭の周りをくるくる回った。
〈心配。してる〉
「黙れ、フィル」
〈してるー〉
フェリクスが精霊を手で払おうとしたが、フィルはひらりと避けた。
ハンス村長が杖をつきながら薬草園にやってきた。白い眉の下の目が、いつもより険しい。
「ミーリアさん。噂のことは聞いたかね」
「はい。グスタフさんから」
「帝都がどう動くか、わしにはわからん。だが、グリュンハイムはあんたの味方だ。それだけは覚えておいてくれ」
村長の皺だらけの手がミーリアの手を握った。温かい手だった。
* * *
——同じ頃、帝都イグナシオン。
宮廷第三局の報告書は、既に写しが三通作られていた。
一通は書庫の棚に。一通は局長の執務机に。そして一通は、帝国聖女クラリッサ・エーデルシュタインの控え室に届けられていた。
クラリッサは椅子に座り、羊皮紙を広げていた。
「辺境で枯れた畑が一夜にして花畑に。民は『聖女の奇跡』と呼んでいる」
報告書の文面を目で追いながら、クラリッサの指が震えた。
「辺境の……あの娘が。追放した、あの」
言葉が途切れた。
膝の上に置いた「聖光の器」に手を伸ばす。淡い光を宿す水晶玉。この魔導具がなければ、聖女の力は保てない。先月のメンテナンス以来、出力が安定しない日が増えていた。
器を握りしめた。指が白くなるほど強く。
「わたくしが帝国聖女です。辺境の小娘の噂など、取るに足りませんわ」
声は控え室の壁に吸い込まれた。返事はない。
窓の外、帝都の夜空は曇っていた。
* * *
グリュンハイムの夕暮れは、いつも通り穏やかだった。
薬草園の片付けを終えたミーリアが宿に戻ろうとすると、フィルが肩の上で光った。
「どうしよう。のんびり暮らしたいだけなのに、こんな大事になるなんて……」
足が止まる。夕日に染まった畑を見渡した。自分が蘇らせた畑。手を当てただけで、花が咲いた畑。
胸の奥がざわつく。この力は、本当にわたしのものなのだろうか。
〈大丈夫。守る〉
フィルの翡翠色の光が、ミーリアの頬をそっと照らした。小さな蝶の羽ばたきが温かい。
「……ありがとう、フィルさん」
ミーリアが微笑んだ瞬間、足元の地面が震えた。
ほんの一瞬。靴底に伝わる微かな振動。すぐに消えたが、ミーリアの体は反応していた。星脈が脈打った。深い場所で、何かが蠢いている。
振り返ったが、畑はいつも通りだった。夕陽が土を赤く染めている。何も変わらない。
けれど足の裏には、あの振動の残響がまだ残っていた。




