第25話 大地の叫び
夜が明ける前に、目が覚めた。
正確には、叩き起こされた。体の奥から突き上げるような振動が走り、ミーリアは寝台の上で跳ね起きた。
地面が震えている。
建物が揺れているのではない。もっと深いところ——地下の、星脈そのものが悲鳴を上げていた。低い唸りが足の裏から伝わってくる。骨に響く振動。
〈痛い。大地、痛い〉
テラの声が震えていた。部屋の隅で土色の球体が明滅を繰り返している。
「テラ……。どこが痛いの?」
〈北。畑。死ぬ〉
ミーリアは寝間着のまま窓を開けた。まだ暗い空の下、北の方角を見る。何も見えない。だが足の裏には、大地の苦しみが絶え間なく伝わっている。カルスト村の時と同じだ。いや、あの時よりもずっと強い。
扉を叩く音がした。
「起きてるか」
フェリクスの声だった。息が荒い。走ってきたのだろう。
「はい。星脈が——」
「わかってる。北の畑が死にかけてる。昨夜から兆候があったが、さっき一気に悪化した」
ミーリアは上着を羽織り、靴を履いた。作業場で薬湯袋を二つ掴み、外に飛び出す。
空はまだ紺色だった。東の端に薄い光が滲み始めている。フェリクスが先を歩き、ミーリアが後を追った。フィルが二人の間を飛び、翡翠色の光で足元を照らしている。
* * *
北の畑は、グリュンハイムの食糧を支える麦畑だった。
村の北端に広がる三区画。村人たちの一年分の麦がここで育つ。その畑が、灰色に変わっていた。
ミーリアは足を止めた。息を呑んだ。
カルスト村の時よりひどい。麦は黒く変色し、茎が地面に倒れている。土はひび割れ、白い粉を吹いていた。枯死した土壌特有の乾いた匂いが鼻をつく。
そして、亀裂があった。
畑の中央を走る細い裂け目。幅は指一本分ほどだが、長さは二十メートル近い。裂け目の底から薄い煙のようなものが立ち上っている。
「星脈の閉塞だ。地下で流れが詰まって、圧力で地面が裂けた」
フェリクスが裂け目を覗き込み、顔を上げた。
「前回の倍以上の範囲だ。お前の力で足りるか」
「やります」
ミーリアは畑に踏み入った。灰色の土がぱりぱりと砕ける。足を進めるたびに、大地の悲鳴が強くなる。星脈の脈動が完全に止まっている区画があった。沈黙した土は冷たく、まるで凍っているようだった。
畑の中央、裂け目のそばで膝をついた。
手袋を外す。両手を、ひび割れた土に置いた。
冷たい。カルスト村の時と同じだ。だが、今回はもっと深い。星脈の閉塞点が地下五メートル以上の深さにある。届くだろうか。
目を閉じた。
意識を沈める。足の裏から、両手から、全身の感覚を大地に溶かしていく。星脈を探す。冷たい土の層を通り抜け、岩盤を越え、もっと深くへ。
あった。
折れ曲がった星脈の束が、地下深くで圧迫されている。流れが堰き止められ、上流の圧力が土壌の生命力を吸い取っていた。
ミーリアの核紋が熱を持った。
指先から白銀の光が滲んだ。光が地面に沁み込み、ひび割れの隙間を伝って地下に降りていく。瞳の色が変わった。金色が白銀に染まり、薄明の空よりも明るく輝いている。
光が閉塞点に届いた瞬間、全身に電流が走ったような衝撃があった。
星脈が応えている。詰まった流れが、ミーリアの力に押されて少しずつ動き始めた。だがまだ足りない。圧力が強すぎる。
もっと、広く。
白銀の脈が放射状に走り出した。
半径三メートル。灰色の土に光が触れ、わずかに色が戻る。
五メートル。倒れた麦の茎が持ち上がり始める。
八メートル。こめかみが痛い。ここが普段の限界だ。だがまだ畑の三分の一しか届いていない。
「ミーリア、無理をするな」
フェリクスの声が聞こえた。だが止まれなかった。畑の残り三分の二が、まだ死んでいる。亀裂からは煙が立ち上り続けている。
ミーリアは歯を食いしばった。核紋に力を注ぎ込む。全身の血が沸騰するような熱さ。視界の端が白く飛び始めた。
十メートル。十二メートル。枯れた麦が蘇り、黒い穂が緑に変わっていく。
十三メートル。頭が割れそうに痛い。耳鳴りがする。
十五メートル。
畑の端まで光が届いた。
亀裂が閉じていく。裂け目の底から白銀の光が吹き上がり、地表を縫うように走って傷口を塞いだ。灰色の土が黒みを取り戻し、砕けていた塊がしっとりと湿り気を帯びる。
〈嬉しい! 土、生きた!〉
テラが地面から飛び出した。歓喜に弾みながら畑を転がっていく。フィルが上空で光の軌跡を描き、アクアが源泉の方角から水の粒子を飛ばしてきた。精霊たちが祝福している。
枯れた畑が、緑に染まっていく。倒れた麦が起き上がり、新しい穂が風に揺れた。
半径十五メートル。過去最大。
ミーリアは手を土から離した。
視界が回転した。天と地がひっくり返り、体が横に倒れる。頭が燃えるように熱い。手足が痺れて動かない。額に汗が噴き出し、全身が震えていた。
「ミーリア!」
倒れる寸前に、腕が回った。フェリクスが膝をついてミーリアの体を受け止めた。片腕で背中を支え、もう片方の手がミーリアの額に当てられる。
「熱い……。高熱だ。馬鹿、だからやめろと言っただろう」
「……まだ、足りない」
ミーリアの唇が震えていた。目は虚ろだが、畑の方を向いている。
「大地が、まだ苦しんでる……。もっと深いところで、何かが……」
「もういい。十分だ。畑は蘇った」
フェリクスがミーリアの頭を腕の中に引き寄せた。乱暴に見えて、その動きは静かだった。革と山の土の匂いがした。
「お前が倒れたら意味がない。聞こえるか。お前が無事なことのほうが大事だ」
ミーリアの意識が薄れていく。フェリクスの腕の温度だけが、遠ざかる世界の中で確かなものとして残っている。
「ごめん、なさい……。でも、畑が……」
「畑は戻った。お前のおかげだ。だからもう寝ろ」
命令口調なのに、声は掠れていた。
ミーリアは目を閉じた。フェリクスの腕の中で、意識が暗闇に沈んでいく。最後に聞こえたのは、フィルの声だった。
〈大丈夫。守る〉
* * *
ミーリアが目を覚ましたのは、昼過ぎだった。
マルタの温泉宿の寝室に寝かされていた。額に冷たい布が乗っている。体はまだだるいが、朝方の燃えるような熱は引いていた。
「起きたかい」
ロッテが椅子に座っていた。手に薬草茶の椀を持っている。
「ロッテさん……。畑は」
「全部戻ったよ。あんたのおかげだ。村の連中が泣いて喜んでた」
ミーリアはほっと息を吐いた。体を起こそうとして、頭がずきりと痛んだ。
「無理するんじゃないよ。あんた、半日も寝てたんだ。フェリクスがここまで担いできたよ」
「フェリクスさんは……」
「外にいるよ。朝からずっと。中に入れって言ったのに、入らないんだ。あの朴念仁」
窓の外を見ると、宿の軒下にフェリクスの背中が見えた。柱に背を預け、腕を組んで立っている。微動だにしない。
ミーリアは薬草茶を一口飲んだ。温かい液体が喉を下り、体の芯をほぐしていく。
* * *
夕方、村に行商人がやってきた。
ミーリアはまだ寝台から動けなかったが、ロッテが行商人の話を教えてくれた。
「大騒ぎだよ。あの行商人、枯れた畑が花畑に変わったって目撃したんだって。もう近くの町に広まっちまってるらしい」
「えっ……」
「『辺境の聖女の奇跡』だってさ。カルスト村の話と合わせて、あんたの噂がどんどん大きくなってる」
ミーリアは布団を引き寄せた。のんびり暮らしたいだけなのに。噂が広がれば、また帝都の目に留まる。使者が来たばかりだというのに。
窓の外で、行商人の声が聞こえた。
「すげえんだよ、マジで。朝見たら畑が灰色でさ、もう駄目だと思ったら、若い女の子が手を当てたらぱあっと光って、全部緑に戻ったんだ。奇跡だよ奇跡」
「それ、あの薬草師さんだろ? 前にもカルストの畑を蘇らせたって聞いたぞ」
「ああ。聖女だよ。帝都の聖女なんかより、よっぽど本物だ」
ミーリアは布団に顔を埋めた。
のんびり暮らしたいだけなのに。
窓の外で夕陽が沈んでいく。聖域山脈の稜線が、今日もほんの僅かに揺らいでいるように見えた。源泉の光の不安定さ、畑の星脈の閉塞、そして今朝の大地の叫び。全てが繋がっている気がする。
けれど今は、考えるだけの力が残っていなかった。ミーリアは目を閉じ、薬草茶の温かさを胸に抱いたまま、眠りに落ちた。
軒下では、フェリクスがまだ立っていた。




