第22話 山守の秘密
薬草が足りなくなった。
開業して三日。患者は増え続け、軟膏も煎じ茶も在庫が底をつきかけている。特に鎮痛用の蒼朮が不足していた。ロッテの畑にも残りが少ない。
「山の中腹にまとまって生えてる場所がある。案内する」
フェリクスが朝食の差し入れ——干し肉と焼きパン——を置きながら言った。
「本当ですか? ありがとうございます」
「……礼はいい。支度しろ」
* * *
山道は前回よりも険しかった。
岩場を越え、獣道を辿り、苔むした倒木を跨ぐ。フェリクスは足場の悪い箇所のたびに振り返り、無言で手を差し出した。ミーリアがその手を取ると、軽々と引き上げてくれる。
「フェリクスさん、この辺りは初めてです。前回の場所よりずっと奥ですね」
「ああ。ここから先は山守以外立ち入らない」
木々の合間から差し込む光が緑色に染まっている。鳥の声が遠くなり、代わりに風の音だけが耳を満たした。フィルが先導するように木々の間を飛び回っている。
足元の土が変わった。黒くて柔らかい腐葉土。踏むと沈み込み、湿った落ち葉の匂いが立ち上る。
〈良い土。栄養たくさん〉
テラが足元からもそりと顔を出した。畑の外に出てくるのは珍しい。よほど土が気に入ったのだろう。
やがて、斜面の中腹に小さな小屋が見えた。
丸太を組んだ素朴な造り。屋根には苔が生し、壁には蔦が絡んでいる。けれど窓の木枠は手入れされ、扉の蝶番に錆はなかった。誰かがずっと世話をしている家だ。
「ここが……」
「山守の番人小屋だ。代々、ヴィントミューレの家が管理してきた」
フェリクスが扉を開けた。ミーリアを先に通す。
中は簡素だった。石の炉と木の机、棚、寝台が一つ。壁に毛皮が掛けてあり、その隣に古びた絵が飾られていた。
ミーリアは絵に目を奪われた。
精霊たちの絵だった。翡翠色の蝶、土色の球体、水滴の青い光。森の中を飛び回る精霊たちが、柔らかな筆致で描かれている。絵の下に、色あせた文字が添えてあった。『森と共に在る者たちへ』。
「綺麗……。これは、どなたが?」
「祖母だ」
フェリクスが棚から水差しを取り出し、木のコップに水を注いだ。ミーリアに差し出す。
「ヴィントミューレの家は代々、精霊の番人だ。山を守り、精霊と言葉を交わし、星脈の流れを見張る。俺の祖母も、その前の祖父も、そのまた前も」
「精霊の番人……」
「帝都では異端だと言われる。精霊の声が聴こえる人間は気味悪がられる。だがこの山では、精霊の声なしには生きていけない」
フェリクスの声は淡々としていた。けれど、精霊の絵を見上げる琥珀色の目は柔らかい。
「祖母は精霊と話ができた。俺よりずっと上手にな。嵐が来る三日前にはわかったし、山崩れの兆しも精霊に教えてもらっていた」
「フェリクスさんのお祖母さま、素敵な方ですね」
「……ああ。強い人だった」
フェリクスは棚に手を伸ばし、古びた革袋を取り出した。中から乾燥した薬草の束が出てくる。
「これは祖母が作った標本だ。この山に自生する薬草を全て採取して、乾燥保存してある」
ミーリアの目が輝いた。革袋の中には二十種類以上の標本が丁寧にラベル付きで収められている。葉の形、茎の色、根の太さ。どれも保存状態が素晴らしい。
「これ、すごいです。五十年以上前のものですよね? こんなに綺麗に残っているなんて」
「乾燥のやり方が良かったんだろう。俺にはわからんが」
ミーリアは標本の一つを手に取り、光に透かした。葉脈の模様がはっきり残っている。乾燥の速度と温度が絶妙だったのだろう。製薬会社の保管庫でもこれほど状態の良い標本は見たことが——。
そこで思考が途切れた。製薬会社。その言葉がどこから出てきたのか、自分でもわからない。
「あの、フェリクスさん。お祖母さまは、薬草にも詳しかったんですか?」
「ああ。山の薬草で村人の怪我を手当てしていた。薬草師というほどではなかったが」
「すごい方ですね。山守であり、精霊の番人であり、薬草の知識もあって」
「……お前に似てるとは思ってた」
フェリクスの声が小さくなった。ミーリアが顔を上げると、琥珀色の目がさっと逸らされた。
「わたし、この標本を参考にさせてもらえませんか? この山の薬草の分布がわかれば、もっと効率よく採取できます」
「好きに使え」
ミーリアは一枚一枚、標本を丁寧にめくった。薬草の名前と採取場所が細かい字で記されている。フェリクスの祖母は、この山をとても愛していたのだろう。
* * *
標本を見終えて顔を上げると、フェリクスが小屋の隅で何かをしていた。
木の椅子を運んでいる。古い椅子を机の横に置き、座面の埃を手で払った。もともと一脚しかなかった椅子が、二脚になった。
「……薬草の保管に、ここを使ってもいいと思ってた」
フェリクスはミーリアを見ずに言った。
「山で採った薬草は、ここで一時保管すれば鮮度が落ちない。乾燥棚も棚もある。それに——」
言葉が途切れた。フェリクスが椅子の背に手を置いたまま、窓の外を見ている。
「もう一人分の椅子を、置こうと思ってた」
沈黙が流れた。
フィルが小屋の天井付近でくるくると回っている。翡翠色の光が壁に踊った。
〈嬉しい。嬉しい〉
精霊の声が、小屋の中に染み渡った。
ミーリアは椅子を見つめた。座面は丁寧に磨かれていて、角が少し丸くなっている。新しいものではない。きっと前からここにあったのだ。前から、ここに置くつもりで用意してあったのだ。
「ありがとうございます、フェリクスさん」
声が少し震えた。
「……ここに来てもいいですか? 薬草の保管だけじゃなくて、その……時々」
フェリクスの背中が僅かに強張り、それからゆっくりと力が抜けた。
「……好きにしろ」
窓から入る風が、精霊の絵を揺らした。祖母が描いた精霊たちが、笑っているように見えた。
* * *
帰り道、約束通り蒼朮の群生地に案内してもらった。
小屋から少し下った北斜面に、蒼朮が一面に広がっていた。ミーリアは歓声を上げ、採取籠をいっぱいにした。フェリクスは黙って見守りながら、時折ミーリアの足元の石を蹴り退けていた。
「こんなにたくさん。これで一月分は持ちます」
「減ったらまた来ればいい。俺が連れてくる」
「はい。……はい」
同じ返事を二度繰り返したことに気づいて、ミーリアは頬が熱くなった。
夕方の山道を二人で下る。フェリクスが三歩前を歩き、ミーリアがその背中を追う。
背中は大きかった。広い肩、日焼けした首筋、森緑の髪が風に揺れている。この人はいつもこうやって、前を歩いてくれる。道を作り、石を退け、手を差し出してくれる。
胸の奥で何かが弾けるように温かくなるのを、ミーリアはまだうまく名前をつけられずにいた。
フィルだけが、二人の頭上を飛び回りながら、ずっと翡翠色に光っていた。




