第21話 薬草師開業します
カルスト村から戻って五日が過ぎた。
ミーリアの作業台は、気がつけば薬草の束と乳鉢と羊皮紙のメモで埋まっていた。
ロッテの薬草園の東端、以前は物置として使われていた小さな石造りの小屋。壁に棚を三段取りつけ、乾燥棚を窓際に設置し、入口に麻の暖簾を下げた。それだけで、立派な薬草師の作業場になった。
「今日から正式に、ここがあんたの仕事場だ」
ロッテが腰に手を当てて宣言した。暖簾の端を指で弾き、にやりと笑う。
「看板はあたしが彫っといた。『薬草師ミーリア』。字が下手なのは勘弁しな」
「ロッテさん……ありがとうございます」
ミーリアは暖簾の文字をそっと撫でた。不揃いだけれど力強い文字。指でなぞると、木の温もりが伝わってくる。
鼻の奥がつんとした。
「泣くんじゃないよ。開業初日に泣く薬草師がどこにいるんだい」
「泣いてません。……ちょっとだけ、目が潤んだだけです」
〈嬉しい。嬉しい〉
フィルが暖簾の上を旋回した。翡翠色の軌跡を残しながら、小屋の中を一周する。テラは棚の端でのんびり転がっていた。
* * *
薬の仕込みは、朝の涼しいうちに行う。
ミーリアは庭先で摘んだ薬草を石臼で擦り、粉にした。三種類の薬草を配合する。解熱の白茅根に、鎮痛の蒼朮、そして消炎の金銀花。配合比率は三対一対二。なぜか手が迷わなかった。
粉を蜜蝋と混ぜ、弱火でゆっくり溶かす。温度が高すぎると薬効が飛ぶ。低すぎると蝋が固まらない。その加減を、指先が覚えていた。
小さな炉の前にしゃがみ、火加減を調節する。蝋が透き通ってきたら粉を少しずつ加え、木べらで丁寧に練り混ぜる。薬草の青い香りが湯気に乗って小屋の中に広がった。
「ねえミーリアちゃん、その配合ってどこで習ったの?」
マルタが窓から顔を覗かせた。朝の温泉掃除の帰りらしく、髪がまだ湿っている。
「えっと、なんでだろう……手が勝手に動くんです。この三つを混ぜると、痛みに効くはずで」
「はずって。自信なさげだけど、手つきはすごく慣れてるのよね」
ミーリアは苦笑した。自分でもよくわからない。ただ、薬草に触れていると安心する。この匂いを、ずっと昔から知っている気がする。
仕上がった軟膏を小さな陶器の壺に詰めた。蓋をして、ラベルを貼る。『腰痛・関節痛用 外用軟膏』。
ここからが本番だった。
ミーリアは軟膏の壺を両手で包み、目を閉じた。星脈共鳴を、ほんの微かに流す。指先から薄い白銀の光が滲み、壺の中の軟膏に沁み込んでいく。薬草の一粒一粒が活性化するのが感覚でわかる。
「よし……これで、普通の軟膏より効くはずです」
〈温かい。薬、元気〉
テラが棚の上から転がり落ちそうになりながら、軟膏の壺に頬ずりした。
* * *
最初の患者が来たのは、昼過ぎだった。
「すまねえ、薬草師のミーリアってのはここかい」
杖をついた老人が、暖簾をくぐって入ってきた。白髪を後ろに束ね、日に焼けた顔に深い皺が刻まれている。隣村のエルンストと名乗った。
「腰がな。もう十年になる。朝起きるのがつらくて、畑にも出られんようになった」
「十年……。少し、触らせていただいてもいいですか?」
エルンストがゆっくりと腰を回した。ミーリアが背中に手を当てると、筋肉がこわばっているのが伝わってきた。腰の左側が特にひどい。長年の農作業で歪みが蓄積しているのだろう。
「ここですね。この辺りが一番張っています」
「ああ、そこだ。そこが痛い」
ミーリアは先ほど仕込んだ軟膏を取り出した。手のひらに適量を乗せ、エルンストの腰に塗り広げる。薬草の清涼な香りが小屋に広がった。
「温かい……。なんだこりゃ、じわっと効いてくるぞ」
「もう一度、塗ります。今度は少し強く」
ミーリアは軟膏を足し、腰の左側に指を沈めた。エルンストが杖を壁に立てかける。膝の上で手を組み直し、息を細く吐いた。
エルンストの表情が変わった。眉間の皺が少しずつ緩んでいく。腰をゆっくり左右に捻り、目を丸くした。
「嘘だろう……痛みが引いてる。十年だぞ。十年間、どの薬師に診せても駄目だったのに」
「完全に治ったわけではないと思います。でも、三日に一度塗っていただければ、少しずつ楽になるはずです」
「畑は、何を作っておられるんですか」
「麦だ。植え付けだけ息子に任せて、あとは縁側から見とった。今年は自分で鎌を持てるかもしれん」
エルンストの目が潤んだ。杖を握る手が震えている。
「ありがとうよ……。あんた、本当にありがとう。息子に自慢してやる、ここの薬は効くとな」
老人は軟膏の壺を三つ買い、銅貨を作業台に一枚ずつ並べた。暖簾をくぐるとき、敷居を跨ぐのに杖を持ち上げた。
* * *
その後も患者は途切れなかった。
「これ、もう治らないと思ってたんだけどねえ」
近所の農婦が両手を差し出した。指の関節が割れて、赤黒くなっている。冬の洗い場で切って、そのまま春を越したのだという。
「曲がりますか」
「曲がらないから困ってんの。芋の皮も剥けやしない」
「痛かったら言ってください」
ミーリアは蜜蝋のクリームを手のひらで温め、割れ目の一つ一つに押し込んだ。星脈共鳴をほんの少しだけ流す。農婦が指を握った。握って、開いて、もう一度握った。
「あら。……あんた、若いのにたいしたもんだねえ」
「三日、水仕事のあとに塗ってください」
「今日の夕飯の芋は、剥けそうかね」
「たぶん、間に合うと思います」
農婦が壺を抱えて出ていくと、入れ違いに膝の痛む行商人が入ってきた。温熱湿布を巻き、そのあとに来た母親の子供へ煎じ茶の袋を渡す。乳鉢を洗う暇もなかった。
「ミーリアさん、次の患者さんが来てるよ。今日だけで五人目だ」
ロッテが作業場の入口から声をかけた。その顔は笑っている。
「五人も……。ありがとうございます、すぐ行きます」
ミーリアは袖をまくり直し、乳鉢を洗った。腕の産毛に薬草の粉が張りついている。指の腹が、乳棒の形に赤くなっていた。
作業台の端に、患者が置いていったものが並んでいた。卵が四つ、干した無花果の袋、名前を知らない誰かが編んだ布巾。銅貨の山より嵩がある。
* * *
日が傾き始めた頃、最後の患者を見送って作業場を片付けていると、窓の向こうにフェリクスの姿が見えた。
薬草園の柵の外で、腕を組んで立っている。こちらを見ていたのか、目が合った瞬間にさっと視線を逸らした。
「フェリクスさん、いつからそこに?」
「……さっきだ」
さっきではないだろう。ロッテが「昼前からいたよ」と小声で教えてくれたが、ミーリアは聞こえないふりをした。
「看板。見た」
「はい。ロッテさんが彫ってくれたんです」
「……いい名前だ」
フェリクスはそれだけ言って、山の方へ歩き出した。三歩進んで立ち止まり、振り返らずに口を開いた。
「明日も……多いだろう。水、持ってくる」
背中が夕陽に溶けていく。ミーリアは小さく手を振り、それから気づいた。柵の杭に、山百合が一輪、そっと立てかけてあることに。
〈朝。摘んだ〉
フィルが教えてくれた。
ミーリアは花を手に取り、作業場の窓辺に活けた。白い花弁が夕陽に染まって、淡い橙色に光っている。
窓の外に目をやった。聖域山脈の稜線が赤く燃えている。いつもと同じ夕暮れのはずだった。
けれど今日は、稜線がほんの僅かに揺らいで見えた。陽炎のような、けれど陽炎にしては長すぎる歪み。
気のせいかもしれない。
ミーリアは目を擦り、もう一度山を見た。稜線は静かだった。揺らぎは消えている。
「……疲れてるのかな」
呟いて、暖簾を下ろした。棚の上でテラが寝返りを打つ。その拍子に乳鉢の縁が鳴って、小屋の中に短く響いた。




