第20話 聖女の力想定を超えて
使者が去って三日が過ぎた。
ミーリアは日常に戻ろうとしていた。薬草園の手入れ、ロッテの手伝い、温泉の掃除。いつも通りの朝を過ごし、いつも通りフィルと畑を見回る。
けれど胸の奥に小さな棘が刺さったまま抜けない。
「あんた、顔が暗いよ」
ロッテが乾燥棚の薬草を束ねながら言った。
「え、そうですか?」
「そうだよ。帝都のことなんか気にしてるんじゃないだろうね」
「……少しだけ」
ロッテが鼻を鳴らした。
「あの連中が何を言おうと、あんたはうちの薬草師さ。それ以上でもそれ以下でもないよ」
その言葉に、ミーリアの口元がわずかに緩んだ。
* * *
昼過ぎ、村の入口が騒がしくなった。
駆け込んできたのは見知らぬ農夫だった。泥だらけの足で石畳を叩き、息を切らしてハンス村長に縋りついた。
「村長さん! うちの村の畑が……! 一晩で半分枯れちまった! 作物がどんどん死んでいく!」
グリュンハイム近郊の農村——東へ半日の距離にあるカルスト村からの急報だった。
村長が問い質すと、畑の土が灰色に変わり、植えたばかりの麦が根から腐っているという。井戸水も濁り始めた。
「星脈の乱れだ」
フェリクスが低く言った。丘の上から東の方角を見ている。風の精霊が怯えるように彼の周囲を旋回していた。
「東の谷筋で星脈の流れが詰まっている。小規模だが、放置すればカルスト村一帯が死ぬ」
ミーリアはフェリクスを見上げた。
「わたしに、できることはありますか」
「ある。だが負荷がかかる」
「行きます」
フェリクスの琥珀色の目がミーリアを見据えた。数秒の沈黙。それから、短く頷いた。
「支度しろ。すぐ発つ」
* * *
カルスト村は小さな盆地にあった。
山道を半日歩き、日暮れ前に辿り着いた時、ミーリアは息を呑んだ。畑が灰色だった。麦の穂が黒く変色し、茎が地面に倒れている。土は乾いてひび割れ、触れると砂のように崩れた。
農民たちが畑の端に集まり、呆然と立ち尽くしていた。老婆が枯れた麦を握りしめて泣いている。子供がぐったりした顔で母親にしがみついていた。
〈苦しい。土が、泣いてる〉
テラの声が震えていた。土色の球体が地面に張りつき、微かに明滅を繰り返している。
「星脈の閉塞点はどこだ」
フェリクスが風を読んでいた。目を細め、空気の流れを手のひらで辿る。
「あの畑の中央。地下三メートルくらいのところで星脈が折れ曲がっている」
ミーリアは畑の中央に向かって歩いた。枯れた麦の間を進む。足を踏み出すたびに、灰色の土がぱりぱりと音を立てた。生命力が完全に抜け落ちた土だ。
畑の真ん中で膝をついた。
手袋を外す。
両手を、ひび割れた土に置いた。
冷たい。いつもの畑とは違う。星脈の脈動がない。沈黙している。まるで大地そのものが息を止めているようだった。
ミーリアは目を閉じ、意識を深く沈めた。
核紋に力を注ぐ。足の裏から大地に呼びかけるように、自分の中の温かい脈動を送り込む。
応えがあった。
遠く、深く、細い振動が返ってきた。地下の星脈が微かに震えている。折れ曲がった箇所で流れが堰き止められ、上流の圧力が土を殺していた。
ミーリアの指先から白銀の光が滲んだ。
光が地面に沁み込んでいく。ひび割れた土の隙間を這い、地下へ向かって降りていく。核紋が熱い。胸の奥で脈動が強まり、全身を星脈の振動が駆け巡る。
瞳の色が変わっていた。淡い金色が白銀に染まり、光を帯びている。
地面が震えた。
白銀の光が、ミーリアの掌を起点に放射状に走り出した。
半径三メートル。練習通り。枯れた麦の根元に光が触れ、灰色の土がわずかに黒みを取り戻す。
五メートル。茎が持ち直し始める。萎びた葉が開く。
八メートル。ここが練習での上限だった。こめかみが痛む。だが止まれない。まだ畑の半分以上が灰色のままだ。
「ミーリア」
フェリクスの声が聞こえた。名前を呼ばれた。いつもは「お前」なのに。
「大丈夫です……もう少し……」
光が広がり続けた。十メートル。十二メートル。畑の端まで届き、柵を越えて隣の区画にまで脈が走っていく。
灰色の土が黒に変わる。ひび割れが塞がる。死んでいた麦の根から新しい芽が吹き出し、緑の穂が揺れ始めた。
光の脈が畑全体を覆った。
〈嬉しい! 土、元気!〉
テラが叫ぶように明滅した。土色の球体が弾むように跳ね回っている。フィルが歓喜の光を散らしながら上空を旋回する。
農民たちが声を上げた。枯れた畑が、目の前で緑に染まっていく。老婆が膝をつき、蘇った麦の穂を両手で掬って額に当てた。子供が母親の腕の中で目を丸くしている。
「嘘だろ……畑が、戻った……」
「すげえ……すげえよ……!」
農夫たちが泣いていた。一晩で死んだ畑が、ものの数分で蘇った。信じられない光景を前に、ただ涙を流していた。
ミーリアは手を土から離した。
立ち上がろうとして、膝が折れた。
頭が割れるように痛い。視界が白く飛ぶ。体が熱い。額に手を当てると、自分の手のほうが冷たかった。発熱している。
「よかった……間に合い、ました……」
言葉が途切れた。体が傾く。
倒れる寸前に、太い腕がミーリアの背中と膝の裏を支えた。フェリクスだった。
「馬鹿。八メートルが上限だと言っただろう」
声は荒いが、腕は静かだった。ミーリアの体を抱え上げ、畑の端の木陰まで運ぶ。
「ごめん、なさい……でも、畑が……」
「黙れ。水を飲め」
フェリクスが革袋の水をミーリアの唇に当てた。冷たい水が喉を下り、燃えるような体の芯をほんの少しだけ冷ました。
フィルがミーリアの額に止まり、翡翠色の光でそっと冷やしてくれている。テラが足元に寄り添い、温かい振動を送り続けていた。
農民たちが集まってきた。枯れた麦を蘇らせた少女の前に跪き、手を合わせている。
「ありがとうございます、お嬢さん……ありがとうございます……」
「畑が死んだら俺たちも死ぬところだった……あんたは命の恩人だ……」
ミーリアは横になったまま、かすれた声で答えた。
「よかった……皆さんの畑が、戻って……」
フェリクスがミーリアの上に外套を掛けた。琥珀色の目が、眠りかけたミーリアの顔をしばらく見下ろしていた。
* * *
——同日、帝都イグナシオン。
宮廷第三局の書庫は、埃と蝋燭の匂いが混じる薄暗い部屋だった。
調査官リヒターが提出した報告書が、局長の机の上に置かれている。局長が羊皮紙を捲り、書記官が横で控えていた。
「辺境の娘の力は、現聖女クラリッサ様の浄化の儀を遥かに凌駕しています」
リヒターが直立不動で報告した。痩せた顔にいつもの鋭さはなく、代わりに困惑が貼りついていた。
「光属性ではない。白銀の光で大地に直接働きかけ、枯死した土壌を数分で蘇生させた。既知の七属性のいずれとも一致しません」
局長が報告書を閉じた。隣に立つ宮廷官僚と目を合わせる。
「聖女クラリッサ様にこの報告が届けば、どうなる」
「知るか」
宮廷官僚が苦い顔で言った。
「だが帝国は——本物を見過ごすわけにはいかない」
蝋燭の炎が揺れた。
報告書の最後の一行を、局長がもう一度読んだ。
『辺境の薬草師ミーリア・ローゼンクロイツの力は、現行の聖女制度の前提を根底から覆す可能性がある。至急、上層部への報告を具申する』
帝都の夜空には雲がかかり、星は見えなかった。
しかしグリュンハイムの空には、星が静かに瞬いていた。木陰で眠るミーリアの頬を、フェリクスの外套がそっと覆っている。




