第18話 行商人の手紙
荷馬車の車輪が石畳を軋ませて、グリュンハイムの入口に止まった。
行商人のオットーは月に二度、帝都との往復路でこの辺境を経由する。赤ら顔の大柄な男で、荷台にはいつも帝都の品物と辺境の噂話を満載している。馬の手綱を杭に結び、荷台から木箱を下ろしながら、マルタの温泉宿に声を掛けた。
「マルタさん、塩と砂糖、それに布を三反。あと今回は手紙を一通預かってきた」
「手紙? 誰宛だい」
「ミーリアさん。帝都の貴族から」
マルタの目が丸くなった。宿の奥に向かって声を張る。
「ミーリアさん! あんたに手紙だよ!」
* * *
ミーリアは薬草園で作業をしていた。泥のついた手袋を外し、エプロンで手を拭きながら宿の前に出ると、オットーが封蝋のされた手紙を差し出してきた。
封蝋の紋章を見て、ミーリアの指が止まった。
薔薇と十字。ローゼンクロイツ家の家紋だった。指先が小さく震える。
「お姉さま……?」
手紙の宛名は「ミーリア・ローゼンクロイツ様」。差出人の名は「エリーゼ・ローゼンクロイツ」。長姉の筆跡だ。細くて丁寧な文字。幼い頃、エリーゼに字の書き方を教わった時の記憶が蘇る。
ミーリアは手紙を胸に抱え、薬草園の奥にある木陰のベンチに向かった。フィルが肩の上で翡翠の光を弱め、静かに寄り添っている。テラも後を追うように転がってきたが、ベンチの足元で止まり、じっと動かなくなった。精霊にも空気が伝わるらしい。
封を切った。
『ミーリアへ
辺境で元気にしていると風の噂で聞きました。安心しました。
あなたが宮廷を去った日、わたくしは何もできませんでした。父上もヴァレンシュタイン家とエーデルシュタイン家の圧力には抗えず、あなたを見送ることすら許されなかったのです。
ごめんなさい。何もできなくてごめんなさい。
あなたはいつも優しくて、薬草の話をする時だけ目が輝いて、わたくしたちの家で一番まっすぐな子でした。そんなあなたを守れなかった姉を、どうか許してください。
体に気をつけて。
いつか必ず会いに行きます。
エリーゼより』
文字が滲んだ。
涙が手紙の上に落ちていた。ミーリアは気づかないうちに泣いていた。
帝都にいた七年間、エリーゼはいつもミーリアを気にかけてくれた。宮廷の訓練が辛い日は手紙をくれたし、一度だけ面会に来てくれた時は薬草の苗を持ってきてくれた。「ミーリアは薬草の話をする時だけ目が輝くのね」と、姉は笑っていた。
追放の日、姉は来なかった。来られなかったのだ。ヴァレンシュタイン家とエーデルシュタイン家の圧力の前に、ローゼンクロイツ家には何もできなかった。大広間に父の姿もなかった。
わかっている。誰も恨んでいない。
ただ、会いたかった。お姉さまの声が聞きたかった。
〈泣いてる。大丈夫?〉
フィルがミーリアの頬に触れた。翡翠の光が涙の雫を照らす。
「うん……大丈夫。大丈夫です、フィルさん」
声が震えていた。全然大丈夫ではなかった。
「あんた」
背後から声が掛かった。振り返ると、ロッテが立っていた。木陰の手前で足を止め、腕を組んでミーリアを見ている。
「マルタから聞いたよ。帝都から手紙だって?」
「はい。姉から……」
ミーリアは手紙を膝の上に置いた。涙を拭おうとしたが、次から次に溢れてくる。指が震えて、手紙の端が皺になった。
「見せな」
ロッテは手紙を取らなかった。ただ隣に座り、大きな手がミーリアの肩を抱いた。
「泣きな。泣いていいんだよ」
その一言で、堰が切れた。
ミーリアはロッテの肩に顔を押しつけて泣いた。声を殺さず、子供のように泣いた。ロッテは何も言わず、ただ背中をさすっていた。
フィルが二人の頭上で光を落とし、テラが足元に転がってきて動かなくなった。精霊たちも静かに寄り添っている。
* * *
どれくらい泣いただろう。
目が腫れて、鼻の奥が痛い。ロッテのエプロンが濡れてしまった。空はいつの間にか午後の色に変わっている。
「ごめんなさい、ロッテさん。びしょびしょです」
「洗えば済むさ。あんたの涙のほうがよっぽど大事だよ」
ロッテが立ち上がり、ミーリアの頭をぽんと叩いた。大きな手のひらの温もりが、頭頂からじんわりと広がる。
「家族ってのはね、離れてても繋がってるもんさ。あたしだって、死んだ亭主のことを今でも思い出す」
ロッテの目が遠くを見ていた。すぐに視線を戻し、いつもの調子で鼻を鳴らす。
「返事は書くのかい」
「はい」
ミーリアは目を拭い、ベンチの横に置いてあった鞄から紙とペンを取り出した。しばらく考えてから、ゆっくり書き始めた。
『お姉さまへ
お手紙ありがとうございます。
わたしは元気です。この辺境の村で、薬草師として暮らしています。
お姉さまを恨んだことは一度もありません。お父さまのことも。
ここに、居場所が見つかりました。
優しいおばさんがいて、温泉があって、精霊さんたちがいて。わたしを「薬草師のミーリアさん」と呼んでくれる人たちがいます。
だから安心してください。
わたしは、もう大丈夫です。
ミーリアより』
書き終えた手紙を封筒に入れ、蝋で封をした。家紋はない。ただの白い封蝋だ。
ペンを置いて、もう一度姉の手紙を読み返した。涙の跡がついてしまったけれど、文字は読める。折り畳み、エプロンのポケットに大事にしまった。
オットーを探して手紙を託すと、行商人は帽子を持ち上げて頷いた。
「次の帝都行きの便で届けますよ。半月ほどかかりますが」
「ありがとうございます。大切な手紙なので」
「任せてくだせえ。手紙の配達はこの仕事の醍醐味でしてね」
オットーが荷馬車に乗り込む。馬の手綱を振ると、車輪がきしみながら動き出した。
馬車が石畳を離れ、山道の向こうに消えていく。ミーリアは入口の門柱に手を置いて、馬車が見えなくなるまで見送った。夕日が山道を橙色に染め、馬車の影が長く伸びて、やがて曲がり角に吸い込まれた。
足音が近づいた。
振り返らなくてもわかる。重くて静かな足取り。
フェリクスがミーリアの隣に立った。何も言わない。手紙のことも、泣いていたことも聞かない。ただ、同じ方向を見ている。
山道の先に広がる空。夕暮れの色が、聖域山脈の稜線を橙色に染めていた。
風が吹いた。山の匂いと温泉の硫黄の匂いが混じった、グリュンハイムの風。
ミーリアのエプロンのポケットで、姉の手紙がかさりと鳴った。
「フェリクスさん」
「なんだ」
「わたし、ここに来てよかったです」
フェリクスは何も答えなかった。ただ、ほんの僅かに首を縦に動かした。それだけで十分だった。
何も言わない。ただ一緒にいてくれる。
その沈黙が、ミーリアにはどんな言葉より温かかった。
橙色の空の端に、最初の星がひとつ灯った。




