第17話 星脈の練習
朝露が光る薬草畑の端に、枯れた薬草が一株だけ残っていた。
ロッテが抜き忘れたものだ。茎は茶色く萎び、葉は丸まって地面に張りついている。
「今日はこれで練習する」
フェリクスが枯れた株を指差して言った。腕を組み、畑の柵に背を預けている。朝の光を浴びた深緑の髪が風に揺れていた。
「この一株だけ、ですか?」
「まず指先だけで試せ。範囲は広げるな」
ミーリアは枯れた株の前にしゃがみ、手袋を外した。土が冷たい。朝の空気が指先を冷やす。
右手の人差し指を、枯れた茎にそっと触れさせた。
目を閉じる。
胸の奥にある核紋に意識を向けた。精霊祭の夜、無意識に花を咲かせてしまった力。あの時の感覚を、今度は自分の意思で呼び起こす。
足の裏から、微かな振動が昇ってきた。地面の奥を流れる星脈の脈動。温かい。その流れに核紋を重ねるように意識を沈めると、指先がじわりと熱を帯びた。
白銀の光が指先に灯った。
ほんの豆粒ほどの光。それが指を伝って枯れた茎に流れ込む。茶色い茎が微かに震え、萎びた葉の先端が持ち上がった。色が戻っていく。茶色から薄い緑へ。緑から深い翠へ。
茎の先に、小さな蕾が膨らんだ。ぱちりと音がして、白い花が一輪だけ開いた。
「……できた」
ミーリアは自分の指先を見つめた。光はもう消えている。頭痛はない。目眩もない。
「できました! 頭も痛くないです!」
振り返ると、フェリクスが柵から身を離していた。琥珀色の瞳が花を見ている。
「一株なら負荷はほぼゼロか」
フェリクスが枯れた株の横にしゃがみ、蘇った花に触れた。花弁がしっかりと開き、茎にも張りがある。
「根まで通ってる。表面だけじゃない」
「そうですか? よかった」
「次だ」
〈もっと。もっと〉
テラが畑の土の上を転がってきた。ミーリアの膝元で止まり、嬉しそうに明滅している。
「テラさんも応援してくれてるんですね」
「浮かれるな。集中しろ」
フェリクスの声は素っ気ないが、口元がわずかに緩んでいるのをミーリアは見逃さなかった。
* * *
次の段階は、範囲の拡大だった。
ミーリアは薬草畑の中央に膝をつき、両手を地面に置いた。目を閉じ、星脈の流れを探る。
足の裏から這い上がってくる振動。温かく、太く、ゆっくりとした脈動。それに自分の核紋を重ねる。指先から白銀の光が滲み出し、地面に広がった。
「半径三メートル。止まれ」
フェリクスの声が聞こえた。
光の脈が地面を走り、ミーリアを中心に円を描く。その円の中で、萎れかけていた薬草の茎が持ち直し、葉の色が鮮やかになっていく。
「三メートル、維持できてます」
「消耗は」
「少しだけ。指先がじんじんします」
「維持したまま十秒待て」
ミーリアは息を整えた。光の円を三メートルに保つ。十秒。二十秒。じんじんする感覚は増えないまま安定している。
「いいぞ。五メートルまで広げてみろ」
ミーリアは息を吐き、核紋への意識をもう一段深くした。光の円がゆるやかに広がる。四メートル。四メートル半。五メートル。
光が通った場所の土が僅かに湿り気を帯び、薬草の根元に小さな露が浮かんだ。テラが光の中をころころ転がり、フィルが上空を旋回している。
〈広い。気持ちいい〉
「五メートルです。まだ、大丈夫です」
フェリクスが腕を解いた。琥珀色の目がミーリアの顔色を注視している。
「八メートルまで試すぞ。少しでもおかしければすぐ言え」
ミーリアは頷き、意識をさらに深く沈めた。星脈の脈動が体全体を包んでいる。温かくて、少し眩しい。光の円が六メートル、七メートルと広がっていく。畑の端まで届き、柵の際に植えてあった元気のない苗木が、みるみる葉を広げた。
八メートル。
視界の端が白くちらついた。
こめかみに鈍い圧迫感が走る。地面が揺れたように見えたが、揺れているのは自分のほうだった。
「今日はここまでだ」
フェリクスの手がミーリアの肩を掴んだ。太い指が肩骨を覆うように添えられ、ぐらついた体を支える。
「え、でも、もう少し……」
「駄目だ。顔が白い」
ミーリアは言われて初めて、自分の手が震えていることに気づいた。光が指先から引いていく。視界のちらつきも収まり、こめかみの圧迫感が薄れた。
「……すみません。ちょっと、目眩がしました」
「八メートルが今の上限だ。覚えておけ」
フェリクスが革水筒を差し出した。ミーリアは受け取って一口飲む。冷たい山の水が喉を通り、こめかみの鈍痛が薄れていく。
「毎日少しずつ伸ばせばいい。急ぐ必要はない」
「はい」
フェリクスが肩から手を離した。ミーリアは少しだけ名残を惜しんだが、何も言わなかった。
〈大地、喜んでる〉
テラの声が足元から聞こえた。土色の球体が畑の真ん中でゆっくり上下に揺れている。
「喜んでる?」
〈うん。嬉しい。元気になった〉
ミーリアは畑を見渡した。光が通った範囲の薬草が、朝日を浴びて瑞々しく輝いている。朝露よりも鮮やかな水滴が葉の表面を転がり、土は黒々と湿って柔らかい。
帝都では何もできなかった力。聖光の儀で沈黙していた核紋。あの日、自分には何の価値もないと思った。
でも今、大地が喜んでいる。
ミーリアの手が微かに震えた。目の奥が熱くなる。
「わたしの力で、大地が喜んでくれるんですね」
声が震えていた。ミーリアは手の甲で目を拭った。
「泣くな。目が腫れる」
「泣いてません。目に朝日が入っただけです」
フェリクスは鼻を鳴らした。ミーリアの視線を避けるように、畑の向こうの山並みに目を向けている。耳の端が赤い気がしたが、朝日のせいかもしれなかった。
* * *
帰り道は山道だった。
朝の練習で消耗したミーリアの足取りが少し遅い。フェリクスはペースを落とし、半歩前を歩いていた。足元の石を黙って避けてくれるので、ミーリアは躓かずに済んでいる。
フィルが二人の頭上を翡翠色に光りながら飛んでいた。テラは畑に残って土の世話をしている。
「フェリクスさん」
「なんだ」
「ありがとうございます。付き合ってくれて」
「……仕事だ」
沈黙が落ちた。木漏れ日が山道に斑模様を描いている。鳥の声が遠くに聞こえる。
フェリクスが足を止めた。
ミーリアも立ち止まる。
「お前の力は、この土地に必要なものだ」
フェリクスは前を向いたまま言った。深緑の短髪の後ろから、耳の端が見えている。
「だが——お前自身は、もっと大事だ」
声が途切れた。フェリクスはそれ以上何も言わず、また歩き出した。
ミーリアは返す言葉が見つからなかった。ただ頬が熱くなるのを感じていた。足元の目眩はとうに消えているのに、胸の奥がずっとどきどきしている。
木漏れ日の中を、二人の影が山道を下っていく。フィルが二人の間を行き来して、翡翠の光を散らしていた。




