第16話 精霊祭りの夜
朝から村の空気がどこか浮き立っていた。
聖樹の広場に色とりどりの花輪が吊るされ、子供たちが駆け回り、おばさんたちが大鍋を火にかけている。グリュンハイムの精霊祭。年に一度、精霊たちに感謝を捧げる日だった。
「ミーリアさん、この花籠、聖樹のところに運んでくれるかい?」
ロッテが両手いっぱいの花籠を差し出してきた。白い野花と赤い木の実が山盛りに詰まっている。
「はい、行ってきます」
ミーリアは花籠を抱えて聖樹に向かった。朝露を含んだ草を踏むたび、足元からほのかな振動が伝わってくる。星脈の鼓動だ。今日はいつもより脈が強い。
広場の中央に立つ聖樹は樹齢三百年を超えると言われている。幹の太さは大人五人が手を繋いでようやく囲めるほど。根元に苔が厚く生え、精霊の光が苔の隙間からちらちらと覗いていた。
聖樹の根元にはすでにいくつもの供物が並んでいた。果実、焼き菓子、薬草の束。村人たちが朝から順番に持ち寄ったものだ。隣村の農夫がリンゴの籠を置き、鍛冶師の老人が炭焼きの煙で燻した干し肉を供えている。
〈祭り。祭り〉
フィルが翡翠色の光を明滅させながら、花籠の周囲をくるくると飛び回っている。テラは聖樹の根元でころころ転がり、アクアが水滴の光を揺らして宙に浮いていた。精霊たちも浮かれている。
「みんな楽しそうですね」
ミーリアは花籠を聖樹の幹のそばに置き、手を合わせた。目を閉じると、星脈の振動が掌を通して体の奥まで沁みてくる。温かい。
「ミーリアさん、午後の炊き出しの大鍋、手伝ってくれないかい」
マルタが駆け寄ってきた。エプロンの裾に粉がついている。
「もちろんです。何を作るんですか」
「例年は塩と根菜の煮込みだけど、今年はあんたがいるからね。なんか特別なもの、できないかい?」
ミーリアは首を傾げた。ふと、頭の片隅にぼんやりとした記憶が浮かんだ。大きな鍋。昆布と鰹節を煮出した、琥珀色の液体。出汁。なぜだろう、その作り方を知っている。
「あの……干した魚と海藻で、汁の下味を作れるかもしれません。きっと体が温まると思います」
「海藻? 行商のオットーが乾物を置いてったね。使いな」
* * *
「あんた、この汁物なんだい。飲んだことない味だよ」
マルタが椀を持ったまま目を丸くしている。
ミーリアは広場の端に設えた煮炊き場で、大鍋をかき混ぜていた。干した魚と昆布に似た海藻を煮出し、塩と少量の酢で味を調えたもの。この世界にある食材だけで、前世の出汁に近い味を再現した。
「えっと、なんとなく思いついて……山菜と合わせると美味しいかなって」
「美味しいどころじゃないよ! 体の芯から温まる」
マルタが声を張り上げると、あっという間に村人が列を作った。ハンス村長も椀を受け取り、一口飲んで目を細める。
「ミーリアさん、これは素晴らしい。精霊祭の定番にしたいくらいだ」
「そ、そんな。わたしはただ、お鍋を混ぜただけで……」
ロッテがミーリアの背中を叩いた。
「謙遜はいいから、もう一杯おくれよ。あんたの料理は薬草より効く」
村人の笑い声が広場に広がった。子供が椀を両手で抱えて走り回り、年寄りが木の切り株に腰掛けて汁を啜っている。
「あんた、来年もこれ作っておくれよ」
鍛冶師の老人が椀を空にして言った。白い髭に汁の湯気がまとわりついている。
「は、はい。喜んで」
ミーリアは大鍋の湯気の向こうに、聖樹のてっぺんが見えることに気づいた。古い枝に花輪が結ばれ、風に揺れている。
フェリクスが広場の端に立っていた。柵に背を預け、腕を組んで祭りの賑わいを眺めている。ミーリアと目が合うと、ふいと視線を逸らした。
ロッテが肘でミーリアを突いた。
「あの子、さっきからずっとこっち見てたよ」
「え? フェリクスさんが?」
「椀を持ってこないかねえ。あたしが持ってってやろうか」
「わ、わたしが持っていきます」
ミーリアは椀に汁をよそい、フェリクスのところに歩いていった。
「あの、よかったらどうぞ」
フェリクスは椀を受け取り、一口飲んだ。琥珀色の目が僅かに見開かれる。
「……美味い」
それだけ言って、黙々と飲み干した。ミーリアは空になった椀を受け取りながら、なぜか胸の奥がほんのり温かくなるのを感じた。
* * *
日が暮れると、精霊祭は本番を迎えた。
村人たちが聖樹の周囲に輪になって座る。松脂の灯りが柔らかく揺れ、子供たちは親の膝で半分眠っている。ハンス村長が低い声で祝詞を読み上げ、聖樹に最後の供物——温泉の湯を木の根元に注いだ。
次の瞬間、聖樹が淡く光った。
〈来た。みんな、来た〉
フィルの声が弾んだ。
谷の奥から、山の斜面から、温泉の湯煙の中から。精霊たちが一斉に姿を現した。手のひらほどの光の粒が、数え切れないほど宙を舞っている。翡翠、土色、水色、淡い金。色とりどりの光が聖樹の周囲を旋回し、螺旋を描いて夜空へ昇っていく。
「綺麗……」
ミーリアは息を呑んだ。精霊たちの光の舞を、こんなに間近で見るのは初めてだった。
帝都では精霊など見たこともなかった。宮廷の冷たい石壁と、蝋燭の白い光しかなかった。ここにはこんなにも温かい光がある。
光の粒がミーリアの頬をかすめる。温かい。春の陽だまりに似た熱が肌に残る。隣に座った子供が母親の膝から身を乗り出し、宙を舞う精霊に手を伸ばしている。
胸の奥で核紋がかすかに震えた。
足元の草が揺れた。
ミーリアが座っていた場所を中心に、地面から淡い白銀の光が滲み出してきた。光は地を這い、細い脈となって四方に走る。その通り道に沿って、草の間から小さな花が次々と顔を出した。白い花。薄紫の花。名前も知らない野花が、ミーリアの周囲三メートルほどに一面に咲き広がっていく。
〈綺麗。綺麗〉
テラが転がりながら花の中に沈んだ。フィルが花びらの上を滑空する。アクアが水滴の光を花弁に落とし、露に濡れた花が月明かりを反射してきらきらと瞬いた。
村人たちが声を失って見つめていた。ロッテが口元を手で押さえ、マルタが隣の人の腕を掴んでいる。ハンス村長が白い髭を撫でながら、何度も頷いていた。
「わ、わたし……また、無意識に……」
ミーリアが慌てて手を引っ込めると、光はすうっと収まった。しかし花は消えなかった。地面に根づいたまま、夜風に揺れている。
「いいじゃないか」
低い声がすぐ隣から聞こえた。
フェリクスがいつの間にか隣に座っていた。膝を立て、腕を組み、聖樹の精霊たちの光を見上げている。
「でも、祭りの最中に勝手に……」
「精霊祭だろう。精霊が喜んでるなら、それでいい」
フェリクスの横顔に、精霊の光が映り込んでいた。琥珀色の瞳に翡翠と金の光が交互に揺れ、いつもの険しさが少しだけ和らいでいる。
〈好き。この人たち〉
アクアの声が聞こえた。水滴の光がミーリアとフェリクスの間を行き来する。
「精霊さんたち、喜んでくれてるみたいです」
「ああ」
沈黙が落ちた。松脂の灯りが弾け、遠くで子供の寝息が聞こえる。
精霊たちの光は次第に薄れ、一つ、また一つと谷の闇に溶けていく。祭りの終わりが近い。
「お前が笑ってると、山が穏やかになる気がする」
フェリクスの声は低かった。前を向いたまま、聖樹のてっぺんを見ている。
「……いや、気のせいだ」
ミーリアは何か言おうとして、言葉が出てこなかった。頬が熱い。それは焚火のせいだと、自分に言い聞かせた。
精霊たちの最後の光が夜空に吸い込まれていく。ミーリアの足元の花畑だけが、月明かりの中でほのかに白く光り続けていた。




