第15話 浄化の儀の噂
行商人のヨルクは、月に二度グリュンハイムを訪れる。
荷馬車に帝都の布地や金物を積み、帰りにグリュンハイムの薬草と干し肉を載せて戻る。ついでに噂も運ぶ。辺境と帝都を結ぶ、歩く新聞のような男だ。
「やあやあ、皆さんお元気で。今日はすごい噂を持ってきましたよ」
広場の井戸端に村人が集まる。ヨルクは荷台に腰かけ、大げさに咳払いした。赤ら顔にたくわえた口ひげが、話すたびに上下に揺れる。
「帝国聖女クラリッサ様の浄化の儀が、どうも上手くいっていないらしい」
ざわめきが広がった。
「三回目の儀式でも、枯れた農地が戻らなかったんだと。光は派手に出るんだが、翌日には元通り。農民たちが困り果てているそうで」
「三回も失敗したのかい」
村人の一人が身を乗り出す。
「失敗とは言わないらしい。宮廷では『調整中』だそうです。まあ、体の良い言い訳ですな」
「調整も何も、三回やって三回ともだろう? 普通なら——」
「おいおい、帝国聖女の悪口はよしなよ。耳に入ったら大変だ」
「辺境まで聞こえやしないさ」
村人たちが口々に話す中、ヨルクがさらに声を落とした。
「もうひとつ。帝都の農民の間で、こんな噂が流れてるらしい。『辺境に、枯れた畑を一夜にして花畑に変えた娘がいる』ってね」
村人たちの目が、いっせいにこちらを向いた。
ミーリアは薬草園の柵の内側から、その話を聞いていた。手にはカムイソウの束。朝の作業の途中だった。
胸がちくりと痛んだ。浄化の儀は、聖女の最も重要な公務だ。枯れた土地を蘇らせ、民を飢えから救う。それができないということは——
「ほら見ろ。本当の聖女さまはミーリアさんなんじゃないか」
「ミーリアさんは畑を蘇らせたじゃないか。あの花畑、まだ咲いてるぞ」
「帝都は間違えたんだ。クラリッサって聖女はまがい物なんだろう」
村人たちの声が大きくなる。ミーリアは手の中のカムイソウを握りしめた。葉が掌の中でくしゃりと潰れた。
「あの、わたしは聖女じゃありません」
「でもミーリアさん——」
「わたしは、ただの薬草師です。この土地が好きで、薬草が好きで、ここにいるだけです」
声が少し震えた。聖女という言葉は、まだ胸を締めつける。帝都の大広間で浴びた冷たい視線。クラリッサの光の前で、何も光らなかった自分の手。追放の夜の暗い回廊。
あの肩書きに縛られていた日々を、もう繰り返したくない。
「帝都は放っておけ」
フェリクスの声がした。
いつの間にか、薬草園の柵の横に立っていた。山の見回りから戻ったらしく、外套に朝露と木の葉がついている。
「あいつらのことは気にするな。お前はここにいればいい」
短い言葉。けれどその声は揺るがなかった。山のように動じない声だ。
ミーリアは小さく頷いた。フェリクスの横顔を見上げると、山の向こうを見据える琥珀色の目が、静かに光っていた。その目は帝都ではなく、グリュンハイムの空を映している。
〈大丈夫。ここにいる〉
フィルが肩の上で、温かく光った。
* * *
その夜、温泉に浸かりながら、マルタがぽつりと言った。
「ミーリアちゃん。聖女だったこと、辛い?」
湯煙の向こうで、マルタの顔が柔らかくぼやけている。露天風呂の縁石に腕を乗せ、夜空を見上げていた。
「辛い、というか……複雑です。帝都にいた頃は、聖女になることが家族の期待で。なれなかった時は、自分が情けなくて」
「今は?」
「今は……」
湯に沈んだ手を見つめる。この手で薬草を採り、軟膏を作り、大地に触れて花を咲かせた。湯の中で指を開くと、指先がふやけて白くなっていた。薬草の匂いが、まだ爪の間に残っている。
「今は、薬草師でいたいです。聖女じゃなくて」
マルタが微笑んだ。湯気の向こうで、その笑顔が滲む。
「それでいいのよ。あんたはあんただもの」
「……ありがとうございます、マルタさん」
「お礼なんていいの。ほら、肩まで浸かりな。冷えるよ」
アクアが源泉の傍で青い光を灯した。水滴の形をした小さな精霊が、湯面をつつくように光っている。温かい湯と、温かい言葉。ミーリアは目を閉じて、深く息を吐いた。
湯が首筋を包む。体の芯から、何かがほどけていく。
* * *
——同日、帝都イグナシオン。
宮廷の奥、聖女の間。
クラリッサ・エーデルシュタインは椅子に深く沈み込み、手の中の魔導具を見つめていた。聖光の器。エーデルシュタイン家が製作した、光属性の出力を増幅する装置。
銀の細工が施された小さな球体。掌に収まるほどの大きさだが、中には精密な魔導回路が走っている。
三度目の浄化の儀。三度目の失敗。
光は出た。S級の光だと宮廷魔導院は太鼓判を押した。けれど大地は応えなかった。枯れた農地に光を浴びせても、翌日には何も残らない。
光の雨のように降り注いだはずなのに、土壌は乾いたままだった。
「クラリッサ様」
扉の向こうから、技術者の声がした。
「聖光の器の出力調整が必要です。次の儀式までに再調整いたします」
「……問題は器ではありませんわ」
クラリッサの声は静かだった。
器の出力は十分だ。光属性A級の力を、器でS級に増幅している。計算上は浄化の儀に足りるはず。
足りないのは——自分の光が、大地に届いていないこと。
あの田舎娘は、裸の手で花を咲かせたという。魔導具もなく。S級の光もなく。ただ土に手を当てて、花を。
噂は宮廷にも届いている。まだ正式な報告ではないが、侍女たちの間でひそひそと囁かれていた。
「報告はもういいですわ。下がりなさい」
技術者の足音が遠ざかる。扉が閉まり、静寂が広がった。
クラリッサは聖光の器を机に置き、鏡台の前に立った。
美しい顔が映っている。帝国聖女の白い法衣。金の髪飾り。エーデルシュタイン家の誇り。唇が薄く引き結ばれ、目の下に僅かな翳りがある。
「わたくしは帝国聖女。あの田舎娘とは違うのです」
声に力を込めた。
「違うのです」
鏡の中の顔は、笑っていなかった。
指先が、机の上の聖光の器に伸びた。銀の表面に爪が当たり、かちりと音がした。
* * *
グリュンハイムでは、夜空に星が瞬いていた。
ミーリアは温泉宿の窓辺に座り、山の稜線を眺めていた。星脈の微かな振動が足の裏から伝わってくる。この土地の鼓動のようだ。一定のリズムで、ゆっくりと脈打っている。
テーブルの上に、山百合の花が水に挿してある。今朝フェリクスが置いていったもの。花弁の縁が夜の冷気で少しだけ丸まっていた。
〈眠い。おやすみ〉
フィルが窓枠の上で丸くなった。翡翠の光がゆっくり明滅して、やがて消えた。小さな蝶の形が暗闇に溶けていく。
「おやすみなさい、フィルさん」
ミーリアは山百合に手を伸ばし、花弁にそっと触れた。
帝都で何が起きていても、ここにはここの暮らしがある。明日もロッテさんの薬草園で働いて、軟膏を作って、星脈共鳴の練習をする。フェリクスさんが水を持ってきてくれて、マルタさんが温泉に誘ってくれる。
それでいい。それがいい。
窓の外で、星がひとつ流れた。
ミーリアは目を閉じた。明日の朝が、待ち遠しかった。




