第14話 山の薬草採り
軟膏の評判は、ミーリアの予想よりずっと早く広まった。
隣の集落だけでなく、山向こうの猟師の村からも問い合わせが来ている。材料が足りない。特に岩苔とシロツメの根は、薬草園では栽培していない天然の素材だ。
「山に採りに行かないと」
「一人で山に入るな」
フェリクスが朝の差し入れと一緒にそう言い切った。水桶を柵に置き、布包みを渡す。いつもの動作。けれど今朝は声に力があった。
「俺が案内する。明日の朝、出発だ」
「えっと、お仕事は——」
「見回りのついでだ」
ついでではないことを、ミーリアも薄々わかっていた。フィルが肩の上で小さく光ったが、何も言わなかった。
* * *
翌朝。空が白みかけた頃、二人は山道に入った。
フェリクスが先を行く。背が高いから、枝を片手で退けて道を作ってくれる。退けた枝がミーリアの頭に当たらないよう、しっかり押さえてから手を離す。ミーリアはその後ろを歩いた。
「足元に気をつけろ。昨日の雨で滑りやすい」
「はい」
山道は薬草園からの散歩道とは違う。岩が露出し、木の根が地面を這い、足場が不安定だ。朝露に濡れた落ち葉が靴底の下で滑る。フェリクスは振り返りもせずに歩くが、ペースはミーリアに合わせて緩やかだった。
時折、大きな段差の手前で足を止めて待っている。何も言わず、ただ待っている。
〈風、良い。山、元気〉
フィルが先行して偵察し、翡翠色の光を明滅させながら戻ってくる。フェリクスはフィルの動きを目で追い、頷いた。
「東の尾根に岩苔がある。シロツメの根は中腹の沢沿いだ。先にシロツメを採る」
「わかりました」
沢沿いの道に入ると、空気が変わった。水の音が近い。苔の匂いが濃くなる。木漏れ日が沢の水面に落ちて、揺れる光の模様を岩に映していた。
「あった」
ミーリアが沢の縁にしゃがみ込んだ。白い根が水際の土から覗いている。シロツメの根だ。
「この辺り、群生してますね。状態も良い——」
根を掘り起こす手が止まった。土を触った指先から、微かな感覚が伝わってくる。
「フェリクスさん、この根、少し弱ってます。土の養分が足りないみたいで」
「……わかるのか」
「触ると、なんとなく。最近、土に触れるとその下の状態が伝わってくるようになったんです」
畑で練習を始めた頃は、指を土に沈めて十数えるまで何も来なかった。今は三つ数える前に伝わってくる。
ミーリアは根に軽く手を当て、星脈共鳴をほんの少しだけ送り込んだ。指先に白銀の光が灯る。地面に小さな脈が走り、根の周囲の土が微かに色を変えた。
根が太くなった。色が白から象牙色に変わり、張りが出る。
「……こんなに変わるんですね」
「おい」
フェリクスの声が低くなった。
「無理するなと言っただろう」
「え、でも、ほんの少しだけ——」
「少しでもだ。山の中で倒れたら担いで降ろすことになる」
「す、すみません」
フェリクスが水筒を差し出した。革の水筒から山の冷水の匂いがする。ミーリアが受け取ると、指先が触れた。
一瞬、二人とも動きを止めた。
「……飲め」
「は、はい」
水を飲む間、フェリクスは沢の向こう側を向いていた。耳が赤い。水の音だけが二人の間を流れていた。
* * *
シロツメの根を十本ほど採り終え、尾根に向かう。
道が急になった。岩場が増え、足の置き場を選ばなければならない。フェリクスは身軽に岩を越えていくが、ミーリアの足は短い。
「ここ、手をかけろ。この岩は安定してる」
「はい——あっ」
足が滑った。
濡れた岩の表面に靴底が噛み合わず、体が後ろに傾ぐ。薬草の入った鞄が背中で揺れて、バランスが崩れた。
腕を掴まれた。
強い力で引き上げられ、岩の上に着地する。フェリクスの手がミーリアの二の腕をしっかり握っていた。
顔が近い。
フェリクスの琥珀色の目が、すぐそこにあった。息がかかる距離。山の風の匂いと、微かな汗の匂い。睫毛が長いことに、こんな近くで初めて気づいた。
〈近い。近い〉
フィルが二人の間をくるくる飛び回って、翡翠色に明滅した。
「……怪我は」
「だ、大丈夫です」
「足元を見ろ。何度も言ってる」
「すみません……」
フェリクスが手を離した。離す前に、一瞬だけ力が強くなった気がした。指の跡がまだ腕に残っている。
「……俺の後ろにいろ。離れるな」
「はい」
それから尾根までの道のりを、ミーリアはフェリクスの背中をじっと見つめて歩いた。広い背中だった。風に髪が揺れている。深い森緑の髪。外套の裾が岩に擦れて、かさかさと音を立てている。
鞄の肩紐を握り直す。心臓がまだ速い。滑ったせいだ。
* * *
尾根に着くと、岩肌に灰色の苔がびっしりと張りついていた。
「うわあ……こんなにたくさん」
「岩苔は日当たりの悪い北面に群生する。この尾根が一番多い」
ミーリアは丁寧に岩苔を剥がし、布の袋に詰めていく。手触りが良い。水分をたっぷり含んだ、しっとりとした苔。指先で厚みを確かめると、繊維がぎゅっと詰まっている。軟膏の材料として最適だ。
フェリクスは近くの岩に腰かけ、山の稜線を見渡していた。風が穏やかに吹いている。空が青い。鷹が一羽、山の向こうで旋回している。
「フェリクスさん」
「何だ」
「ここ、すごく気持ちいい場所ですね。風が優しくて」
「……ああ。山守の見回りで、一番好きな場所だ」
剥がしかけの苔から指が離れなかった。爪の先に湿った緑が挟まっている。
「ガキの頃から、ここに来るとほっとした。山で迷った時も、泣いた時も、最後はここに来た」
「泣いた時も?」
「……言うな。忘れろ」
ミーリアは口元を押さえた。笑いが漏れそうになる。この人にも泣いていた頃があるのだ。
岩苔を採り終え、立ち上がった。袋がずっしりと重い。
「ありがとうございます。たくさん採れました。これで軟膏がもっと作れます」
「ああ」
フェリクスが立ち上がり、帰り道を歩き始めた。三歩ほど進んで、足を止める。背中が少しだけ強張っていた。
「……また来い」
「え?」
「山の薬草は、まだたくさんある。一人では危ない。だから——また、俺が案内する」
背中を向けたまま。声が低い。最後のほうは、ほとんど呟くようだった。
ミーリアは布袋の口を結び直した。結び目がうまく締まらない。
また来い。
「はい。また、お願いします」
フェリクスの肩が微かに動いた。頷いたのだろう。それからまた歩き出した。今度は振り返らなかった。
帰り道、二人の間に会話はほとんどなかった。靴底が落ち葉を踏む音と、袋の中で苔の擦れる音が続いた。フィルは肩の少し先を飛んでいる。
麓が近づいた頃、ミーリアが小さく呟いた。
「フェリクスさんの好きな場所、わたしも好きです」
前を歩くフェリクスの足が一瞬止まって、すぐにまた動いた。何も言わなかった。けれど歩く速度が、少しだけ落ちた。
〈良い。二人。良い〉
フィルが肩に降りて、翡翠色の光を弱めた。木立の切れ間から、薬草園の柵が見えている。




