若木の変化
ジゼルの騒動が去り、辺境に穏やかな日々が戻ってきた。
グリュンハイムの村はずれ、薬草畑の一角に、あの若木が朝の光を浴びて立っていた。カイトが遺した名も知れぬ種から芽吹いた木だ。ほんの半月前まではミーリアの膝ほどしかなかったのに、今では彼女の背丈を優に追い越している。
ミーリアは水桶を手に、その前で立ち尽くしていた。
「……おかしいですよね。いくら、なんでも」
傍らのロッテおばさんが、腕を組んでうなった。長年この辺境であらゆる草木を育ててきた薬草師でも、この成長ぶりには首をかしげるほかない。
「あんた、あたしは四十年、土いじりをしてきたけどね。こんな木は、見たことがないよ」
幹に手を当て、上から下へなでおろす。
「半月で、人の背丈を越える木なんて、聞いたこともない」
「しかも、今は夏の盛りを過ぎた頃だ。木ってのは本来、こんな時期にこうも勢いよくは伸びないもんさ」
若木の幹はまっすぐで、しなやかだった。淡い銀色を帯びた表皮が朝日を弾いて、かすかに光っている。掌のような形の葉は、縁がわずかに金色に輝いていた。ただの木でないことだけは確かだ。
「実がなる木なら、まだ、わかるんだけどねえ」
ロッテは葉を一枚つまんで、しげしげと眺めた。
「この葉っぱ、薬草でもないし、毒草でもない。あたしの知ってる、どの図譜にも載ってない」
葉が、指のあいだでしなやかにたわんだ。
「……あんたが、どっかの偉い人からもらった種だっていうから、育ててみたけどさ。こりゃ、あたしの手には負えないよ」
「わたしにも、正体は、わからないんです。ただ、大事な人が、託してくれた種だから」
ミーリアは若木を見上げて微笑んだ。
〈すき。この子。あったかい〉
肩の上で、フィルが翡翠色に瞬いた。
* * *
その日、ミーリアは一日、若木のそばで過ごした。
観察するほどに、この木の不思議さが際立ってくる。まず精霊たちが、この木を好んだ。風のフィル、土のテラ、水のアクア。属性の違う精霊たちが湯だまりに集う人のように若木の枝へ寄り添っている。本来なら気まぐれで、ひとところに長く留まらないはずの精霊が、この木の周りだけはいつも賑やかだった。
昼過ぎ、山守の仕事を終えたフェリクスが様子を見にやってきた。
彼はしばらく無言で若木を見上げ、それから幹にそっと手を触れた。山で精霊の気配を読むことに長けた男の目が、細くすがめられる。
「……脈打ってる」
「え?」
「木の中で。何かが、流れてる。……星脈の流れと、似てる」
フェリクスの言葉に、ミーリアははっとした。彼女も幹に手を当ててみる。すると確かに感じられた。かすかな、けれど規則正しい脈動。この木そのものが、小さな星脈をその身に宿している。地面の下を流れる大地の力が、この一本の木に吸い上げられ、循環している。そんな感覚だった。
「星脈を、宿した木……そんなもの、あるんでしょうか」
ミーリアの問いに答えられる者は、いなかった。
「山の言い伝えに、少し」
フェリクスが、ぽつりと言った。
「大地が健やかな土地には、大地の心を映す木が、生える。ばあさまが、そう言ってた。……眉唾だと、思ってた。今までは」
「フェリクスさんの、おばあさまが……」
「ああ。その木は、精霊の家になる。人と大地を、繋ぐ、と」
ミーリアは、若木の枝に集う精霊たちを見上げた。フィルもテラもアクアも、我が家のようにそこでくつろいでいる。言い伝えが、目の前の光景と重なった。
ただ、フェリクスはひとつだけ、気になることを口にした。
「オルテと、ハーゼル。お前が、綻びを癒した村だ。あの日から、こいつの伸びが、速くなった」
「……綻びを、癒すたびに?」
「そう見える」
ミーリアは、目を見開いた。
言われてみれば、そうだった。星脈の綻びを癒すたび、大地に生命の流れが戻る。その流れのいくらかをこの若木が感じ取り、大地の癒しに応えて成長を速めていた。土地が健やかになるほど、この木もまた生気を増していく。
* * *
夕暮れ、ミーリアは机に向かい、羽根ペンを握った。
まず、帝都のリーナへ。ザルテの一件の礼を兼ねた一通だ。制度改革局の資料に、星脈を宿す植物の言い伝えでも残っていないだろうか——そう書き添えて、封をした。
けれど封蝋を落としても、胸の内の問いは晴れなかった。この若木は、何なのか。星脈を宿し、精霊を招き、季節も忘れて伸びていく。ロッテもフェリクスも答えを持たない。どの図譜にも載っていない。いったい誰に問えばいいのだろう。
窓の外の若木を見つめて、ミーリアはふと思い至った。
「……そうだ。聖樹さまに、聞いてみよう」
村の奥に立つ、あの古木。大精霊の宿る、辺境の守り神。この木の正体を知る者がいるとすれば、百年この地を見守ってきたあの聖樹をおいてほかにない。
半年前に別れたきり、あの人とは一度も会っていない。前に出した手紙も、まだ返ってこない。それでも、焦ることはないのかもしれない。まずはこの足で、聖樹のもとへ。答えはそれから、ゆっくり探せばいい。
* * *
その夜のことだった。
ミーリアが寝床に入ろうとした時、窓の外がふわりと明るくなった。
驚いて外を覗くと、若木が淡く光っていた。銀色の幹から、金色の葉先から、柔らかな光がこぼれている。その光に誘われるように、無数の精霊が木の周りを舞っていた。夜の闇に浮かぶそれは、まるで小さな星が地に降りて、一本の木に宿ったかのようだった。
ミーリアは外へ出た。
若木の下に立つと、葉のさざめきに混じって、かすかな声のようなものが聞こえた気がした。言葉ではない。ただ温かく、懐かしい何かの気配。この木は育っている。ただ大きくなるだけでなく、何かへと変わろうとしている。そのはじまりの息吹を、ミーリアは肌で感じていた。
その時だった。木の放つ光が、ふいにひときわ強く脈打った。
舞っていた精霊たちが羽を止める。楽しげなざわめきが、ふつりと途切れた。ミーリアの背を冷たいものがなぞる。柔らかな光の奥、そのぬくもりの底に別の何かが息づいていた。ひやりとした気配。喉の奥がかすかにすぼまる。それはほんのまばたきの間のことだった。光はすぐにやわらぎ、精霊たちは何事もなかったようにまた枝の間を舞い始める。
気のせいだったのだろうか。ミーリアは無意識に、胸元を押さえていた。けれど、あの一瞬に触れた気配は、どこかで覚えのあるもののような気もした。それが何か思い出せないまま、彼女は若木を見上げる。
「あなたは、いったい、何になるの」
問いかけても、若木はただ静かに光っているだけだった。その光の中で、精霊たちの声が重なり合って、ひとつのささやきになる。
〈まってる。あの人。もうすぐ〉
ミーリアは、その言葉に胸がかすかにざわめいた。誰を待っているのだろう。問い返しても、精霊たちはただ楽しげに、枝の間を舞うばかりだった。
答えは、まだ遠い。けれど、この光はきっと何かのしるしだった。ミーリアは、夜風に揺れる銀色の葉をいつまでも見上げていた。その光が、遠い東の空へと細く糸を引いて伸びていることに、彼女はまだ気づいていなかった。




