聖樹の若木
その若木の正体を確かめるなら、頼れる相手はひとつしかなかった。
グリュンハイムの村の奥、深い森に囲まれたひらけた場所に、それは立っていた。聖樹。天を衝くほどに高く、幹は大人が何人も手を繋いでも囲みきれないほど太い。村人たちが代々祈りを捧げてきた、辺境の守り神。その古木には大精霊が宿っている——かつてミーリアに大聖女アリーシアの記憶の断片を授けた、あの存在が。
ミーリアは若木から折り取った枝を一本手に携え、聖樹の根元へと歩み寄った。
見上げれば、無数の葉が風にさざめき、木漏れ日が地面に金色の斑を落としている。この木は百年の間、辺境の移ろいを見守ってきた。
困った時、彼女はいつもここへ来る。
「教えて、ください」
幹に手のひらを当てた。柔らかな苔の感触。
「この子は、いったい、何なのですか。あなたと、同じ、においがする。……でも、どこか、違う気も、するのです」
聖樹の幹が熱を帯びた。
掌を通して古い深い意識が流れ込んでくる。ミーリアの視界が白く霞んでいった。
* * *
風景が、見えた。
はるか昔——この辺境がまだ名もなき荒野だった頃の景色だった。荒れ地に一本の若木が植えられている。その傍らに白い衣の女性が膝をついて、両手を土に当てていた。大聖女アリーシア。力を使うときのミーリアと同じ、白銀の瞳。
〈——木は、大地の、こころ〉
声が聞こえた。老婆のようでいて、限りなく優しい——大精霊の声だった。
健やかな大地には健やかな木が育ち、その木に精霊が集う。やがて人と大地を繋ぐ依り代になる。声そのものは短いのに、意味は絵のようにミーリアの中へ流れ込んできた。畑に立つあの若木も、星脈を宿し、精霊を招いている。
〈あれは、聖樹の、若木じゃ〉
ミーリアの胸が高鳴った。
あの木は、この聖樹と同じ系譜だ。大地が癒えるほどに育ち、いつかこの森の古木のように辺境の新しい守り神となるのかもしれない——そう思った。
けれど、大精霊の声はそこでわずかに翳った。
〈じゃが……あの若木には、わらわの知らぬ、気配が、混じっておる〉
「知らない、気配……?」
〈聖樹の力は、光と、星。なれど、あの木の芯には、異質な流れが、脈打っておる〉
「異質な、流れ……」
〈温かい。じゃが、その奥に……喰らうものの、影がある〉
ミーリアの背筋を、冷たいものが走った。
「喰らう、もの……それは、危ういもの、なのですか」
〈わからぬ〉
大精霊の声は正直だった。
〈わらわは、恵みの力しか、知らぬ〉
毒となるのか、糧となるのか。それはこの古木が見てきた理の外にあるのだと、ミーリアは受け取った。
〈ただ、その力は、そなたが、よく知る者から、来ておる〉
胸が詰まった。
喰らうもの。その言葉に、心当たりがあった。
聖域山脈で出会ったあの人。共に封印の間で戦った仲間。彼の核紋を初めて感じた時のことを、ミーリアは覚えている。温かい光——けれどその奥に、何かひやりとする気配が潜んでいた。この種を遺していったのは、その人だった。
〈その者は、みずからの力の、ひとかけらを、この種に、託したのじゃろう〉
大精霊の声が続いた。
〈なにゆえ、そうしたのか。わらわには、わからぬ〉
託された種は、いま自分のもとで育っている。ならば意味を問う相手は、この古木ではない。
〈問うべきは……種を、遺した者、その人じゃ〉
* * *
視界が戻った。
ミーリアは聖樹の根元で、荒い息をついていた。額に汗が滲んでいる。傍らで翡翠色の光が揺れていた。フィルだ。心配げに明滅しながら、ミーリアの顔をじっと見つめていた。
〈だいじょうぶ? ミーリア〉
「……ええ。平気です」
ミーリアは微笑んでフィルの光に頬を寄せた。それから、手にした若木の枝をじっと見つめた。淡い銀色のしなやかな枝。掌のような葉。ここには聖樹と同じ、光と星の力が宿っている。けれどその芯に、あの人の力の残り香が溶け込んでいる——確かに感じる。
だから、この若木は伝説の聖樹と同じでいて、違うのだ。
純粋な恵みの木ではない。癒しの力と、喰らう力。相反するふたつの流れをその細い幹に抱えている。
それがいったい何を意味するのか。若木が育ちきった時、聖樹のような守り神になるのか。それとも、まったく別の、予想もつかないものになるのか。
この森の大精霊にも、わからなかった。
〈あのような木は、初めて、見る。見届けるのは、そなたの役目じゃ。あれを遺した者と、共に〉
大精霊の最後の言葉が、ミーリアの胸を静かに撫でていった。
あれを遺した者と、共に。その短いひと言が、あの人の面影を鮮やかに呼び起こした。
* * *
聖樹の森を出る頃には、木漏れ日が金色から夕暮れの橙へと変わっていた。
ミーリアは若木の枝を胸の前で握りしめ、歩いた。
喰らうもの。大精霊が告げたその言葉が、まだ耳の奥に残っている。けれど不思議と、恐れは湧いてこなかった。あの人の核紋に初めて触れた時のことを、思い出す。温かい光の奥に潜んでいた、ひやりとした気配。あれを怖いと感じたのは最初の一瞬だけだった。あとはただ、背中を預けられる確かな熱として、そこにあり続けた。
村はずれの畑まで戻ってくると、あの若木が夕日を浴びて立っていた。
ミーリアは持ち帰った枝を若木の根元の土に挿した。もとはこの木の一部だった枝だ。土に還れば、いつかこの子の糧になるだろう。指先で湿った土を軽く押さえると、幹の内をめぐる脈動が応えるように掌へと伝わってきた。
とくん、とくん、と。まるで小さな心の臓が細い幹の中で脈を打っているかのように。
「あなたを遺した人に、あなたを、会わせてあげたい」
幹に頬を寄せて、ミーリアはつぶやいた。
それは、若木のためだけの願いではなかった。半年、会えずにいるあの人に。この木を口実にしてでも、もう一度会いたい。心の裡でそう認めてしまうと、頬がほんの少し熱くなった。
畑の向こうでは、フェリクスが薪を割っている。斧の音が規則正しく夕暮れの空気を叩いていた。その音に背を押されるように、ミーリアは決めた。もう、迷うのはやめよう、と。
翌朝いちばんに、二通目の手紙を書こう。今度はためらわずに、この胸のうちをそのまま綴ればいい。喰らうものの影も、若木の脈動も、会いたいというこの気持ちも。
夕日が若木の銀の幹を燃えるような赤に染めていた。枝の間でフィルが翡翠色にひとつ瞬く。まるでその決意にうなずくように。
ミーリアは枝を挿したばかりの土に手を触れてから、小屋のほうへ歩き出した。背にした若木が、風もないのに葉をさやさやと鳴らしていた。明日書く手紙の宛先を、もう知っているかのように。




