本物の聖女がすること
オルテの村は、丘の斜面にへばりつくように広がっていた。
ミーリアたちが着いた時、村は重い沈黙に沈んでいた。畑は乾いてひび割れ、井戸の水は濁って涸れかけている。星脈の綻びがこの土地の生命力をじわじわと吸い上げていた。
それだけではない。村人たちの顔には、まやかしに縋った者の深い疲れが刻まれていた。ジゼルに供物を奪われ、それでも土地は癒えず——絶望だけが後に残されたのだ。
村の広場に、ひとりの若い母親が幼子を抱いて座り込んでいた。銀の腕輪をジゼルに差し出した、あの女だった。腕の中の子は熱で頬を赤く染めている。母親の目は、もう何も期待していないうつろな色をしていた。
ミーリアは、その前に膝をついた。
「お返しに、来ました」
胸に抱いてきた銀の腕輪を、母親の手に握らせる。母親の目が大きく見開かれた。
「これは……でも、聖女さまが、土地を清めるために、必要だと……」
「あれは、聖女ではありません。人の弱みにつけ込む、ただの、まやかしです」
ミーリアははっきりと言った。迷いなく。
「本物の土地の癒しに、供物はいりません。……見ていてください。今から」
* * *
ミーリアは立ち上がり、乾いた畑の中央へと歩み出た。
足の裏に大地の悲鳴が伝わってくる。星脈の綻び。大崩落の名残がこの土地の奥深くで細い亀裂となって生命の流れを堰き止めていた。それも一箇所ではなく、土の層の下に無数の小さな裂け目が散っている。目を閉じ、深く息を吸う。土の匂い。乾いた風。遠くで精霊たちが怯えて身を潜める気配。
ミーリアは、乾いた畑にひざまずいた。
土に両手の指を沈める。金色だった瞳が、ゆっくりと白銀へ色を変えていく。まぶたを通しても分かるほどの強い光が、視界いっぱいに広がっていった。
〈——おいで〉
声に出さず、彼女は大地の底に眠る星脈の流れへと呼びかけた。怯えていた精霊たちがおずおずと集まってくる。土の精霊テラの褐色の光。水の精霊アクアの青い燐光。彼らがミーリアの手のひらの下に寄り添っていく。
次の瞬間、地面に光の脈が走った。
ひび割れた土の隙間を縫って白銀の光が蜘蛛の巣のように広がっていく。堰き止められていた流れが少しずつ綻びを迂回し、迷いながら新しい道を見つけていく。傷をこじ開けるのではなく、傷の外側を丁寧に辿るように。滞っていた生命力が大地に還り始めた。
岩を砕くのではなく、水がおのずと低きへ道を選ぶように。壊れたものを壊れたまま受け止め、そのうえで命がもう一度巡る道筋を辛抱強く探してやる。
ジゼルがやっていたのとは、まるで違う。あの女が土地に強引にねじ込んでいた「力」の残滓が、ミーリアの指先から感じ取れた。傷口に傷口を重ねるような、荒い干渉の跡。それが彼女の力——『調律』の、本当のかたちだった。
村人たちは息を呑んで、その光景を見つめていた。
乾いた畑の土がみるみる色を変えていく。灰色だった地面が湿り気を帯び深い黒褐色へ。ひび割れが閉じていく。やがて枯れたはずの畝の間から緑の芽がひとつ、またひとつと顔を出し始めた。見る間に双葉を開き茎を伸ばす。土の下ではテラが歓喜に震えしぼんだ根に命を送り込んでいた。
涸れかけていた井戸から、こぽり、と音がした。
澄んだ水が底から湧き上がってくる。アクアの青い光が水面で跳ねるように踊っていた。かつて村人たちの喉を潤した、あの生きた水の匂いが、広場いっぱいに満ちていった。
〈もどった。みず。うれしい〉
肩の上のフィルが翡翠色に明滅する。精霊たちの感情がさざなみのようにミーリアの胸へと流れ込んでくる。ついさっきまで怯えて土の底に潜んでいた者たちが、今は蘇った畑の上を光の粒となって飛び交い、互いにぶつかり合うように弾んでいた。緑の芽はなおも伸び続け、乾いていた大地はしっとりと黒く豊かに息づいていく。生命の巡りがこの土地に戻ってきたのだ。
ミーリアはゆっくりと手を地面から離した。
白銀の瞳がまた金色に戻っていく。額に玉の汗が滲んでいた。膝がわずかに震える。星脈の綻びを癒すのは、花を咲かせるような表の仕事とは比べものにならないほど体力を削る。それでも、彼女は微笑んでいた。
* * *
村は、静まり返っていた。
誰も言葉を発せなかった。ただ蘇った畑と湧き返る井戸を呆然と見つめている。やがて、抱いていた子を母親が地面に下ろした。熱でぐったりしていたはずの幼子がいつの間にか目を開けていた。子は湧き出す井戸へとよちよちと歩み寄り、その小さな手を澄んだ水に浸した。
「つめたい……」
子どもの無邪気な声が、静寂を破った。
その一言で堰が切れたように村人たちが動き出した。井戸に駆け寄り水を汲む者。蘇った畑の土を手に取り涙をこぼす者。
畝のそばには、ひとりの老爺がへたり込んでいた。芽吹いたばかりの若葉を、ふるえる両手で包むように見つめている。
「わしは、来年の種籾まで、あの聖女に渡しちまった。根こそぎだ。もう、この村は、終わりだと思っとった」
皺だらけの頬を涙が伝った。奪われ涸れ果てたと思っていた明日が、今、足元の土から芽吹いている。老爺は土から顔を出した緑を拝むように、いつまでも見つめていた。
「水だ……本物の、水だ」
「畑が、生き返った。ああ、麦が、また蒔ける」
口々に上がる声は震えていた。誰かが地面にひざまずき、ミーリアに向かって手を合わせようとした。
「やめてください」
ミーリアは慌てて、その手を押しとどめた。
「わたしは、拝まれるために来たのではありません」
膝をつきかけた人たちの前に、ミーリアは両手を広げた。
「土地は、みなさんのものです。あとは、みなさんが育ててください」
「……水も、作物も、誰かに奪わせないで。これは、みなさんが生きるための土地なのですから」
母親が銀の腕輪を握りしめたまま、涙を流していた。
「わたし……あの人に、これを渡してしまえば、この子が、助かると……それしか、考えられなくて」
「わかっています」
ミーリアは母親の肩に手を置いた。
「不安な時、人は、藁にも縋りたくなる。それは、弱さではありません。……ただ、その弱さにつけ込む者を、二度と、この村に、入れないこと。それだけは、約束してください」
母親は何度も、何度も、うなずいた。
* * *
帰り道、クラリッサはずっと黙っていた。
夕暮れの街道を馬車がゆっくりと進む。やがて、彼女は隣に座るミーリアにぽつりと言った。
「ミーリアさま。あなたは、ジゼルを、追いませんでしたね。捕らえて、罰することも、できたはずですのに」
「罰することは、いつでもできます」
ミーリアは窓の外の茜空を見つめた。
「でも、あの村の人たちの乾いた心を潤すことは、今しかできなかった」
窓枠に置いた指が、揺れる馬車に合わせて小さく跳ねた。
「……罰は、後からでも追いかけられる。けれど、絶望した人の心は、放っておくと乾いて、割れてしまうから」
「それを潤すのが、たぶん、聖女にいちばん求められていることなんです」
クラリッサはその横顔をじっと見つめた。それから、目を伏せた。かつて聖女を騙った自分がついぞたどり着けなかった境地がそこにあった。人を拝ませるのではなく、人が自分の足で立てるように背を押す。それが、本物の聖女の、することだった。
馬車の窓の向こうで蘇ったオルテの畑が夕日を浴びて金色に輝いていた。あの村の子どもたちはもう、乾いた井戸を覗き込まなくていい。その光景ひとつが、削られた体力の何よりの報いだった。まだ戦いは終わっていない。ザルテ男爵の影は街道の先で彼女たちを待っている。それでも——この日ここで芽吹いた緑は、二人の胸にしっかりと根を張っていた。




