償いという名の一歩
西に傾いた陽が、泉のほとりを、茜色に染めていた。
ヨーゼフとクラリッサ。二つの影は、まだ動けずにいた。振り上げた拳を下ろした父と、ひざまずいたままの女。その間に横たわる沈黙は重かった。けれどもう、刃のようには尖っていなかった。すすり泣きの声もいつしかやんでいた。村人たちはただ、二人を見守っていた。
先に口を開いたのは、クラリッサだった。
「ヨーゼフさん」
彼女は、ひざまずいたまま、まっすぐに男を見上げた。涙で汚れた頬を、拭おうともせず。
「わたくしを、殴ってくださって、かまいません。罵ってくださっても。……それで、あなたの気持ちが、少しでも晴れるのなら。わたくしには、それを受ける義務が、あります」
「そんなことを、望んでるんじゃ、ねえ」
ヨーゼフは、疲れきった声で、首を振った。
「殴ったところで、リタは、戻らねえ。あんたを恨んで、この二年、俺は、なんにも、前に進めなかった。憎しみってのは……抱えてると、こっちの身のほうが、先に腐っちまう」
彼は荷袋の紐をゆっくりと解いた。中から、色あせた木彫りの人形を取り出す。稚拙だが丁寧に彫られた、小さな猫の人形だった。
「これは、リタが、大事にしてた。俺が、下手くそな手で、彫ってやったもんだ。あの子は、これを抱いて、眠ってた。……熱にうなされながら、最期まで、握りしめてた」
クラリッサの視線が、その人形に、吸い寄せられた。
「あんたに、聞きたいことが、あるんだ」
ヨーゼフの声が、震えた。
「あんたは、あの壇上で、加護があるって言った。祈れば、助かるって」
低い声だった。怒鳴りはしなかった。
「……あれを言った時、あんたは俺たちのことを、少しでも考えたことがあったのか。祈りにすがる俺たちの顔を、見たことがあったのか」
残酷な問いだった。けれど二年間、彼がいちばん知りたかったことだった。
クラリッサは、目を閉じた。逃げることは、できた。覚えていない、と言えば。けれど、彼女は、そうしなかった。
「……見て、いませんでした」
絞り出すような、告白だった。
「あの頃のわたくしは、壇の下の顔を見ていませんでした。見ないように、していたのです」
「ひとりひとりの顔を見てしまえば、自分のしていることの重さに、耐えられなくなる。だから、目を伏せていました。祈る人々を、ただの風景として」
膝の土が、白く乾いていた。
「……あなたの村の広場も、リタさんの顔も、わたくしは覚えていない。その無関心こそが、わたくしのいちばんの罪です」
ヨーゼフの顔が、歪んだ。怒りではなかった。むしろその正直さに打ちのめされたような顔だった。
「……そうか。覚えて、いねえのか」
彼は、天を仰いだ。茜色の空に、一番星が、瞬き始めていた。
「いっそ、覚えてるって、嘘をついてくれたほうが、楽だったよ。あんたは、どこまでも、正直だな」
「嘘は、もう、つきません」
クラリッサは、人形を見つめたまま、言った。
「一生、つきません。それが、わたくしにできるたったひとつの、はじまりです」
「……ヨーゼフさん。ひとつだけ、お願いがあります。リタさんのお墓の場所を、教えてください」
「わたくしは、あの子に手を合わせに行きます。何年かかっても。この足で、ラング村まで」
* * *
ヨーゼフは、しばらく、答えなかった。
やがて彼は、ふところから擦り切れた布切れを一枚取り出した。幼子の産着の切れ端だった。
「墓は……村の外れの、丘の上だ。桜桃の木の、下にある。あいつは、桜桃の実が、好きだったからな」
声が、詰まった。
「来るなとは、言わねえ。だが、来るなら、聖女さまとしてじゃ、ねえ」
ヨーゼフが、はじめて目を逸らした。
「ひとりの女として、来い。金の輿も、着飾った衣装もいらねえ。あの子の墓に頭を下げるのに、そんなもんはいらねえんだ」
「はい。……必ず」
クラリッサは、深く、頭を下げた。地面に、額がつくほどに。
その時、ミーリアが歩み寄った。手には薬草畑で摘んだ白い小花の束を握っている。彼女はそれをクラリッサの隣に置いた。
「ヨーゼフさん。差し出がましいことを、言います」
ミーリアの声は、柔らかかった。
「亡くなった方は、戻りません。それは、どんな力でも覆せない」
「……でも、リタさんのような子をこれ以上、増やさないことはできます。まやかしの祈りにすがって、助かる命を見送ってしまう。そんな悲しみを、この土地からなくすことは」
ミーリアは、ひざまずいたままの背に目をやった。
「クラリッサさんが、これからそれをやります。薬草の知識で、人を本当に助ける側に回ります」
「……それが、たぶん、リタさんへのいちばんの手向けになる」
ヨーゼフはミーリアとクラリッサを交互に見た。そして木彫りの猫をぎゅっと握りしめた。
「……そうしてくれ。頼む。俺の娘みたいな子が、二度と、出ねえように。あんたらの力で」
また涙がこぼれた。けれど泉に来た時よりも、その顔はいくらかやわらいでいた。長く背負った重荷の端を、ようやく誰かと分け合えたような。二年間憎しみだけを抱えて歩いてきた男が、初めてその荷を地面に下ろしたような深い疲れと安堵が、そこにはあった。
村人たちの間からあたたかな息が漏れた。誰かがヨーゼフの肩にそっと手を置いた。老婆がしわだらけの手でクラリッサの背をさすった。夕暮れの泉が金色の水面にその光景を映していた。
* * *
その夜。
グリュンハイムへ帰る馬車の中で、クラリッサは両手を膝の上で握りしめていた。ミーリアが隣でその横顔を見つめる。
「……ミーリアさま」
クラリッサが、ぽつりと、口を開いた。
「わたくし、逃げなくて、よかった。あの人の前から」
クラリッサの肩が、ゆっくり上下した。
「……ずっと、怖かったのです。いつか、過去が追いついてくるのが。でも、今日、追いつかれて……初めて、少しだけ息ができた気がします」
「うん」
ミーリアは、微笑んだ。
「一歩、踏み出しましたね。償いの」
クラリッサは、うなずいた。それから瞳に光が宿った。揺れていた瞳がいま、まっすぐ前を見据えていた。
「ミーリアさま。あの女——ジゼルを、必ず止めましょう」
「あの女は、今のわたくしと、二年前のわたくしを地続きにする存在です。人の不安につけ込み、命を供物に変える」
「……あれを放っておけば、また、リタさんのような子が生まれる。わたくしは、もう目を伏せません」
馬車の窓の外を、無数の星が、流れていた。
その光の下で、クラリッサの決意は声もなくしかしまぎれもなく形を成していった。逃げ続けた女が、初めて自分の足で立とうとしていた。膝の上で握られた手はもう震えていなかった。それは赦しを乞う手ではなく、何かを掴み取ろうとする意志の宿った手だった。追うべき影の輪郭は、もうはっきり見えていた。ジゼルの背後に潜む何者か。まやかしの奇跡を利権に変えて肥え太る、顔の見えない誰か。その正体を暴くことこそが、償いへの次の一歩だった。馬車は星明かりの街道を、辺境の谷へと下っていく。夜風が幌をかすかに鳴らしていた。




