過去からの訪問者
混乱に乗じて、ジゼルは動いた。
従者に耳打ちしたかと思うと、彼女は身を翻し、白い馬車へと駆け寄った。村人たちの意識がクラリッサの告白と湧き返った泉に向いている。その隙をついて。
「逃がすか」
フェリクスが地を蹴った。だが、商人たちが馬車の前に立ちふさがり、荷を投げつけて時を稼ぐ。馬車は砂ぼこりを上げて、街道の彼方へと走り去っていった。フェリクスは、舌打ちひとつで、追撃を諦めた。無理に追えば、この場を離れることになる。それは、得策ではなかった。
「……追いますか」
クラリッサが問うと、ミーリアは静かに首を横に振った。
「いいえ。あの人には、後ろ盾がいます。今、あわてて追っても、尻尾しかつかめません。それより——」
その時だった。
村人の群れをかき分けて、ひとりの男が、前へ進み出た。
旅装の、日に焼けた中年の男だった。あの、群衆の後ろから、じっとクラリッサを見つめていた男だ。手は、荷袋の紐を、痛いほどに握りしめている。彼はクラリッサの数歩手前で足を止め、震える声で絞り出すように言った。
「……あんた。エーデルシュタインの、聖女さま、だな」
クラリッサの背が、こわばった。
「二年前。俺の村に、聖女さまの巡幸が来た。忘れも、しねえ。……俺は、ヨーゼフ。ラング村の、ヨーゼフだ」
その名を——その村の名を聞いた瞬間、クラリッサの顔から血の気が引いた。覚えている。確かに覚えていた。金の輿に乗せられ着飾らされ、村から村へと運ばれたあの巡幸の日々。手を振るだけで、人々がひれ伏した。その中に、ラングの村も、あったのだ。
「あの年、村に、悪い病が流行った。子どもが、次々と熱を出して倒れた。俺の娘も、そのひとりだった」
ヨーゼフは、一度、言葉を切った。喉の奥から込み上げるものを、必死に、押し戻すように。
「そこへ、聖女さまが、おいでになった。村じゅうが、沸いたよ。これで助かる、ってな」
その口調が、そこだけ誰かの声色をなぞった。
「——案ずるな。星神の加護があれば、病は必ず癒える。俗な薬師などに頼れば、かえって加護が濁る。ただ、祈れ。心を込めて、祈れ、と」
クラリッサの唇が、わなないた。その言葉を彼女は一言一句覚えていた。台本通りに、そう告げるよう、教え込まれていたのだ。加護など、ありはしないのに。
「俺たちは、信じた。聖女さまの、お言葉だ。疑うなんて、罰当たりな真似、できるものか」
乾いた唇が、一度だけ閉じた。
「……村に来ていた薬師を、追い返してまで、俺たちは祈ったんだ。来る日も、来る日も」
ヨーゼフの声が、震えた。怒りと、悲しみと、その両方で。
「娘は、死んだ」
そのたったひと言が、泉のほとりの空気を凍りつかせた。
「リタっていう名だった。まだ、六つだった」
泉の水音だけが、続いていた。
「祈っても、祈っても、熱は下がらなかった。日に日に、痩せていった。薬の一服も、飲ませてやれなかった」
「……最期に、あの子は、俺の手を握って、言ったよ。『聖女さまは、いつ、助けにきてくれるの』って」
ヨーゼフの喉が、鳴った。
「俺は、その問いに、答えてやれなかった。ただ、大丈夫だ、もうすぐだって、嘘をつき続けるしか」
村人たちは、息を呑んで、その光景を見つめていた。すすり泣きの声が、あちこちから、漏れ始めていた。
クラリッサは、立っていられなかった。膝から、崩れ落ちるように、その場にひざまずいた。結い上げた金髪が、乱れて、頬にかかる。
「……申し、訳……」
声が続かなかった。謝罪の言葉はあまりにも軽く、あまりにも遅すぎた——それが彼女自身の喉を内側から締めつけた。リタは、戻らない。二年前、彼女が壇上で偽りの加護を語ったその時——遠い村で、ひとりの幼子が来ぬ助けを待ちながら息を引き取っていた。その事実の重さが、今はじめて生身の姿となって、彼女の前に立っていた。
ミーリアは、その光景を、じっと見つめていた。
聖女の言葉が、どれほどの重みを持つか。追放され、その座を追われた自分だからこそ、痛いほどにわかる。人は聖女の一言に命を預ける。疑うことなく、疑う術も持たないまま、全てを。その言葉が偽りであったなら、預けられた命は行き場を失う。クラリッサが背負っているのは、そういう罪だった。ジゼルの嘲りなど、比べものにならない、本物の罪の重さ。
ミーリアは、胸に抱いた銀の腕輪を握りしめた。オルテのあの母親も、もし、あのまま偽りの祈りにすがり続けていたら。腕に抱かれた熱に赤らんだ幼子は、リタと同じ道を辿っていたかもしれない。まやかしの聖女は、ただ財を奪うだけではない。人が助かるはずだった命を、みすみす見送らせる。ジゼルの罪も、かつてのクラリッサの罪も、その一点で地続きだった。だからこそクラリッサは、自分の古傷を裂いてまであれほど必死に、ジゼルを止めようとしたのだ。
「謝って、ほしいわけじゃ、ないんだ」
ヨーゼフは、拳を握りしめたまま、言った。
「ただ……ただ、知りたかった。あんたが、今、どんな顔で生きてるのか」
握った拳から、力が抜けた。
「のうのうと、また聖女さまの顔をして暮らしてるのか。それとも、少しはあの子のことを、思い出すことがあるのか」
彼の目が、ひざまずくクラリッサを、まっすぐに見下ろした。
クラリッサは、顔を上げた。涙で、ぐしゃぐしゃになった顔で。それでも、彼女は、目を逸らさなかった。逸らす資格すら、ないと知っていた。
「わたくしは……あなたの娘さんを、殺したも同然です」
地面についた手が、土を握った。
「わたくしの偽りが、リタさんから助かる道を奪った。……償えるとは思いません。一生をかけても」
「それでも、わたくしは逃げません。あなたの前から。この罪から」
「……どうか、あなたの気の済むように、してください」
ヨーゼフの顔が、くしゃりと歪んだ。
その拳が、震えながら、振り上げられる。村人の誰かが、小さく悲鳴を上げた。ミーリアは、動かなかった。フェリクスも、剣に手をかけたまま、じっとその場を見守っていた。これは二人だけの、決して他人が割って入ってはならない時間だった。
振り上げられた拳が、宙で、止まった。
ヨーゼフの目から、大粒の涙が、こぼれ落ちる。彼は、その拳を、ゆっくりと下ろした。振り下ろす先を、見失ったように。握りしめていた指が、ひとつずつ、ほどけていった。
「……くそっ。なんで、あんたが、そんな顔で、泣くんだよ。恨む相手が、そんなふうに泣いちまったら、俺は、この気持ちを、どこに、ぶつけりゃいいんだ」
その声は、憎しみよりも深い疲れと、行き場のない悲しみに満ちていた。二年間抱え続けた重荷を下ろす場所を、彼もまた、探し続けていたのだ。
泉のほとりに、二つの、うずくまる影があった。娘を喪った父と、その死に手を貸した女。西に傾き始めた陽が、その二つの影を長く地に伸ばしていた。誰も、次の言葉を見つけられずにいた。ただ癒されたばかりの泉だけが、何も知らぬように澄んだ水をこんこんと湛え続けていた。




