偽りは本物の前で
ヴィント村の聖泉は、村のはずれ、岩に囲まれたくぼ地にあった。
かつては、こんこんと清水が湧き、旅人ののどを潤したという。けれど今、その泉は底の見えるほどに水を減らし、縁には白い塩の結晶が浮いていた。星脈の綻びが、この地の水脈も絞め殺しつつあったのだ。村人たちは涸れゆく泉を、藁にもすがる思いで見つめていた。それだけに、「星導の聖女」の来訪は、彼らにとって最後の希望に見えたのだろう。
その泉の前に、白い馬車が停まっていた。
金の刺繍の聖女装束をまとったジゼルが、村人たちを従えてもったいぶった足取りで泉へと歩み寄っていく。すでに泉のほとりには供物の山が築かれ始めていた。ミーリアたちは村人にまぎれて、その様子を見つめる。フェリクスはいつでも動けるよう腰の布を解いていた。クラリッサは頭巾の陰で、じっとジゼルの手元を凝視している。
「哀れな泉ですこと」
ジゼルは扇で口元を隠しながら、朗々と声を張った。
「されど、案ずることはありません。星の導きを受けたわたくしが、この泉に、再び命を吹き込みましょう。さあ、心をこめて、祈りなさい。そして、感謝を、かたちに」
ジゼルが泉に手をかざす。従者の商人がそっと岩陰へと回り込むのを、ミーリアの目は捉えていた。堰き止めた水を流す、いつもの合図だ。
だが、その手が振り下ろされる、その前に。
「——待ってください」
ミーリアは前へ進み出た。
いっせいに振り返る村人たち。ジゼルの眉が不快そうにつり上がった。
「なんです、あなた。聖女の儀式を、邪魔立てするおつもり?」
「その泉は、あなたには癒せません」
声は大きくなかった。けれど澄んで、まっすぐに届いた。その場の、すべての耳に。
「なぜなら、あなたには綻びを癒す力がないからです。あなたがしているのは癒しではなく、まやかしです」
ざわり、と村人たちがどよめいた。ジゼルは一瞬たじろいだが、すぐに勝ち誇った笑みを取り戻す。
「まあ、恐ろしい。田舎の巡礼者が、嫉妬に狂って、聖女を貶めようというのですか。……いいでしょう。ならば、見せてさしあげます。わたくしの、本物の奇跡を」
ジゼルが手を振り下ろす。合図を受けた商人が、岩陰で栓を抜いた。泉の底から、ごぼり、と水が湧き上がる。
「ごらんなさい! これが、星の導き——」
「それは、あなたの力ではありません」
ミーリアが歩み出た。泉のほとりに膝をつき、澄んだ水面に両手をかざす。
〈みんな。聞こえていますか〉
その瞬間だった。
泉の水が内側から淡く光り始めた。
ジゼルが流した水は底に溜まっただけの死んだ水だった。それに対しミーリアの手のもとでは、水が生きたように輝きを帯びていく。地の底で断たれていた星脈が彼女の呼びかけに応え、本来の流れを取り戻す。ミーリアは乱れた脈をひとつずつ手繰り寄せ、綻びの縁を丁寧に編み直していった。塩の結晶に覆われていた縁から、みるみる新しい緑が芽吹き始める。乾いた岩肌が潤いを取り戻す。若葉の匂い。
そして、光の中から、精霊たちが姿を現した。
風のフィルが翡翠色に舞い、水の精霊が銀の飛沫となって跳ね、地の精霊が若葉の冠となって泉を彩る。この地に根ざす無数の小さな精霊たちが、ミーリアの周りに集い、感謝の舞を踊った。それは仕掛けでは決して生み出せない、まぎれもない本物の奇跡だった。光の粒子が村人たちの頬を撫でていく。
村人たちは声もなく、その光景に見入っていた。老婆が崩れ落ちた。震える手を合わせたまま。子どもが精霊の光をつかもうと、無邪気に手を伸ばす。
やがて、泉はあふれんばかりの清水を湛えた。飲めば甘い。生きた水だ。誰かが手ですくって口に含んだ。涙をこぼした。
「……本物だ」
その一言が、村人の間にさざなみのように広がっていく。
そのさざなみの中心で、ジゼルはひとり立ち尽くしていた。
扇を握る手がだらりと下がっている。金糸の聖女装束も、うずたかく積まれた供物の山も、もう誰の目にも映ってはいなかった。村人たちの眼差しは、ひとつ残らず泉の光へと吸い寄せられている。あれは自分には決して出せない光だった。栓を抜けば湧く仕掛けの水とは、根本から違う。奪い欺くことしか知らなかったジゼルの目に、生まれてはじめて、奪うことのできないものが映っていた。事実は冷たい水のように背筋を這い上がる。もったいぶった余裕は、跡形もなかった。
ミーリアはゆっくりと立ち上がり、青ざめたジゼルを正面から見据えた。
「これが、聖女の力です。供物は、いりません。祈りも、いりません。ただ、苦しんでいる土地を、癒す。それだけのことです」
言い終えたミーリアの額には、うっすらと汗が滲んでいた。これほど大きな綻びを一息に癒すのは、決して容易ではない。指先は冷え、膝は今にも笑いそうだった。それでも、彼女は背筋を伸ばし、まっすぐに立ち続けた。ここで倒れれば、示したばかりの本物の力さえ、疑われてしまう。フェリクスがさりげなく彼女の傍らに寄り、その肘を村人には気づかれぬよう支えた。
その時、頭巾を外したクラリッサが、村人たちの前へ進み出た。凛とした声が、泉のほとりに響く。
「皆さん。よく、ご覧なさい」
指が、泉の脇をまっすぐに差した。
「あの女が水を出した泉の脇——そこの土が、湿って盛り上がっているでしょう。あれは、前もって水を仕込んだ跡です」
村人の何人かが、身をかがめて土を覗きこんだ。
「祈りの言葉は、栓を抜く合図。そして人垣のどこかに、真っ先に奇跡を叫ぶ役が仕込んであります。金で雇われたサクラです」
息を吸う音が、いくつも重なった。
「わたくしには、わかります。……なぜなら、わたくしも、かつて同じまやかしで、人を欺いていたのですから」
村人たちの目が、疑いの色を帯びて、ジゼルへと注がれた。積まれた供物に伸ばされかけていた手が、次々と引っ込んでいく。ひそひそと交わされる声が、次第に非難の色を濃くしていった。
ジゼルの顔から、聖女の仮面が、剥がれ落ちた。
「……ちっ」
舌打ちひとつ。もはや、取り繕う「わたくし」は、どこにもなかった。
「なんなのよ、あんたたち。せっかくの商売を、邪魔しやがって」
地の声が剥き出しになる。ジゼルは追い詰められた獣のようにあたりを見回し、その視線がクラリッサの顔でぴたりと止まった。
じわり、とジゼルの口の端が吊り上がる。
「……あんた。その顔、どこかで見たと思ったら」
扇が、ぴたりと止まった。
「エーデルシュタインの偽聖女じゃないか。帝国を騙して、聖女の椅子にふんぞり返ってた女。……あたしのまやかしを、笑える立場かい?」
ジゼルはくるりと村人たちに向き直り、声を張り上げた。
「皆さん、聞いておくれ! あたしを詐欺師呼ばわりするこの女こそ、帝国じゅうを騙した、正真正銘の偽聖女さまだよ! どの口が、あたしを裁くっていうんだい!」
ざわめきの色が変わった。クラリッサへ向けられる視線に、戸惑いと疑念が混じり始める。
クラリッサの顔がさっと白くなった。差し出そうと決めたはずの過去が、望まぬかたちで衆目の前にさらされていた。
ミーリアはとっさにクラリッサの前へ一歩を踏み出した。フェリクスもまた、無言で二人の背をかばうように立つ。泉の光は、まだ輝いている。けれどその光の縁で、新たな緊張が鋭く張りつめていった。




