聖女を名乗る女
オルテの村は、噂の熱気に浮き立っていた。
街道を外れ、丘をひとつ越えたところにあるその村は、他の集落と同じく星脈の綻びに苦しんでいた。畑は乾き、井戸の水は細い。それでも村人たちの顔には、不安よりも高揚があった。今日、「星導の聖女さま」がこの村においでになる。そう聞いて朝から広場に人が集まっていたのだ。老いも若きもいちばん良い服を着て、手には供物を握りしめている。祭りの前夜のような浮ついた空気が、村じゅうを満たしていた。
ミーリアたちは、旅の者を装って、人垣の後ろに紛れ込んだ。フェリクスは剣を布で隠し、クラリッサは目深に頭巾をかぶっている。かつて帝都で顔を知られた身だ。用心に越したことはない。ミーリアもまた、聖女の証である淡い光を胸の奥に鎮め、ただの巡礼者のように振る舞った。
「来ましたわ」
クラリッサが、低くつぶやいた。
広場の奥から、一台の馬車が現れた。飾り立てられた白い馬車。そこから降り立ったのは、金の刺繍をあしらった純白の聖女装束をまとったひとりの女だった。歳は三十を過ぎているだろうか。濃く化粧を施した顔に、勝ち誇ったような笑みを浮かべている。その背後には恰幅のいい商人風の男が数人、供物を入れるらしい大きな木箱を抱えて従っていた。男たちの目が注がれているのは、村人ではなく村人の手の中の供物だけだった。
「皆さん、よくぞお集まりくださいました」
女は、両手を広げた。焚かれた香が、あたりに甘い煙を漂わせる。
「わたくしが、星導の聖女」
村人の輪が、じりと前へ動いた。
「この地に満ちる災いを祓い、涸れた大地に恵みを取り戻すために、遣わされた者です。……安んじなさい」
声が、朗々と広場を渡った。
「あなたたちの苦しみは、今日この日、わたくしが終わらせてさしあげましょう」
村人たちがどよめいた。何人かはその場に膝をつく。女は満足そうにうなずいた。その崇拝を当然の報酬とでも思っているように。
「さあ、あなたたちの井戸を、見せてごらんなさい。星の導きが、水を呼び戻しましょう」
女は村の井戸へと歩み寄った。もったいぶった足取りで井戸の縁に手をかざし、天を仰いで朗々と祈りの言葉を唱え始めた。意味のわからない、けれど荘厳に響く言葉の羅列だった。従者の商人がさりげなく井戸の裏手へ回るのを、ミーリアの目は捉えていた。
やがて井戸の底から、ごぼり、と音がした。
水位が、みるみる上がっていく。
「水だ!」「聖女さまだ!」
村人たちが歓声を上げた。次々と地に伏し、女を拝む。女はその光景をうっとりと見下ろしていた。
ミーリアの隣で、クラリッサが、ふっと息を吐いた。
「……やはり。井戸の脇の地面、土の色が違いますでしょう」
ミーリアは、言われた場所へ目をやった。
「あそこに水路を仕込んでありますわ。前もって堰き止めておいた水を、あの従者が合図で流しているのです」
クラリッサの声は、ささやきよりも低かった。
「祈りの言葉は、合図を送る間を稼ぐための、ただの飾りですわ」
言われてみれば、井戸のわきの土が不自然に湿って盛り上がっていた。ミーリアは目を閉じて星脈を探る。この村の綻びは、癒されてなどいなかった。女の手からは聖女の力の欠片も感じられない。核紋の光はあるにはあるが、あまりに弱い。土地を癒すにはまるで足りない。ともし火ほどの光で太陽のふりをしている——それが、あの女の正体だった。
「本物では、ありません」
ミーリアは、静かに言った。
「あの人には、綻びを癒す力なんて、ありません。水が戻ったように見えても、明日にはまた涸れる。そうしたら、あの人はまた言うのでしょう。供物が、足りなかったのだと」
その言葉のとおりだった。水を得た村人たちが我先にと供物を運び始めた。麦、干し肉、卵、なけなしの銅貨。木箱がみるみる満ちていく。女はそれを扇であおぎながら眺め、供物の少ない者にはあからさまに眉をひそめた。
「あら。それだけ? 星の導きは、けちな心には応えませんことよ」
叱られた老爺が慌てて懐から最後の一枚らしい銀貨を取り出した。女はそれをひったくるように受け取る。
と、女の前にひとりの若い母親が進み出た。腕には、熱で頬を赤くした幼子を抱いている。
「聖女さま。この子が、ひと月も熱が下がらないのです。どうか、どうか癒してくださいませ。お供えできるものは、これしか……」
母親が差し出したのは、擦り切れた布に包んだ銀の腕輪だった。おそらく嫁入りのときに母から譲られた、たったひとつの宝だろう。女はその腕輪を一瞥すると迷いなく手を伸ばし、つまみ上げた。
「よろしい。特別に、祈ってさしあげましょう」
女は幼子の額に、ちょんと指を触れた。それだけだった。祈りの言葉すら、唱えなかった。
「これで、じきに良くなりますよ。星の導きを、信じることです」
むろん、熱が下がるはずもない。母親から宝だけを奪い、女は次の供物へと関心を移した。ミーリアの胸で、静かだった火が音を立てて燃え上がった。
追放されたあの日、彼女に手を差し伸べる者は誰ひとりいなかった。聖女でありながら聖女と認められず、荒野に放り出された。頼る者も、すがる先もない。あの心細さをミーリアは知っている。だからこそ弱い者のすがるしかない心につけ込む者を、許せなかった。あの母親が握りしめていた腕輪は、ミーリアがかつて失ったものと同じ種類の、かけがえのないものだ。奪われてよいものでは、決してない。
思わず前へ踏み出そうとした彼女の腕を、フェリクスの手がそっと押さえた。大きく、温かい手だった。その手のひらの熱が逸る心をかろうじて繋ぎ止める。
「気持ちはわかる。だが、今じゃない」
フェリクスが耳元でささやいた。反対側からクラリッサも、静かに続けた。
「今ここで暴いても、村人はまだ、あの女を信じています。奇跡を見せられた直後の人の心は、理屈では動きません」
香の甘い匂いが、風に乗って流れてきた。
「暴くなら、あの女自身が逃げられぬ場所で。本物の力の前で」
「……そうでなければ、あの母親の腕輪も、戻ってはきませんわ」
その時、扇の陰で、女がちらりと別の顔を見せた。
「……ちょろいもんだねえ」
誰にも聞こえぬはずの、その小さなつぶやき。けれど風の精霊フィルがミーリアの耳元へその声を運んでいた。取り繕った「わたくし」の裏から、剥き出しの「あたし」が顔を覗かせた瞬間だった。
女——星導の聖女は、満載の木箱を馬車に積ませ、村人の見送りを受けて次の村へと去っていく。その背中を、ミーリアは最後まで見据えていた。腕に抱かれた幼子の赤い頬が、いつまでも目に焼きついて離れなかった。あの女が次に向かう先は肩先のフィルがすでに追っている。決着をつける場所は、そう遠くないはずだ。ミーリアは袖の中で拳を握った。甘い香の匂いが乾いた風に流れ、少しずつ薄れていった。




