もう一人の聖女
三日ぶりに戻ったグリュンハイムは、いつもと変わらない顔で、ミーリアたちを迎えた。
辺境自治区の中心に立つ聖樹が、午後の日を受けて葉を揺らしている。井戸を癒したフェルデ、供物の祭壇があったヴァルト。あの乾いた村々とは違い、この地の大地は、まだ健やかに息をしていた。ミーリアが追放されてこの辺境に流れ着いてから、来る日も来る日も星脈を整え、精霊と語り、土地の脈を繋ぎ直してきた。その積み重ねが、今の緑だった。誰に命じられたのでもない。ただ、目の前の土地が苦しんでいたから、癒した。それだけのことを、彼女は続けてきた。
「戻ってきた、という感じがしますね」
ミーリアが息をつくと、隣を歩くフェリクスがわずかに口の端を上げた。
「疲れただろう。今日はゆっくり休むといい。畑の続きは、明日でも遅くはない」
「そうします。……といっても、あなたが休ませてくれるかどうか」
「休ませるさ。そのために、ついている」
肩先のフィルが、翡翠色にちかちかと瞬いた。二人のやりとりをからかうように。ミーリアは頬が熱くなるのを感じて、わざとらしく前を向いた。
けれど、その和やかさは、長くは続かなかった。
聖樹のそばの広場で、数人の村人が額を寄せ合って何かを話していた。ミーリアの姿に気づくと、彼らは気まずそうに口をつぐむ。その中のひとり、いつも薬草を届けてくれる老婆が、おずおずと歩み出た。
「ミーリアさま。お戻りでしたか。……あの、つかぬことをお訊きしますが」
「なんでしょう」
「西のほうに、たいそう霊験あらたかな『星導の聖女さま』がおられると、聞きましてな。供物を捧げれば、どんな綻びも祓ってくださるとか」
しわだらけの手が、帽子のふちを揉んだ。
「うちの息子が隣村で商いをしておるのですが、そちらへお参りに行くべきか、迷っておるのです」
ミーリアは、言葉に詰まった。
自分が居るこの地でさえ、別の「聖女」の噂が人の心を捉え始めている。それが哀しいのではない。ただ、あの搾取の手がここまで伸びてきたことに、腹の底から怒りが湧いた。
「そのかたに、供物を捧げてはいけません」
ミーリアは、老婆の手を取った。
「聖女の力は、供物と引き換えに施すものではありません。もし土地が苦しんでいるなら、わたしがまいります。供物は、いりません」
老婆は、ぱちぱちと目をまたたかせた。それから、深く頭を下げた。周りの村人たちも、ほっとしたように表情をゆるめる。けれど、彼らの顔に残るわずかな迷いを、ミーリアは見逃さなかった。噂とは、そういうものだ。一度心に入り込めば、たやすくは消えない。人は、目の前にある確かな癒しより遠くの華やかな奇跡に心を惹かれてしまう。
* * *
その話を、ミーリアはその日のうちに、クラリッサに確かめに行った。旅の空でフィルが運んできた言葉が、胸に残っていた。この噂に、彼女は怖い顔をしたのだという。
クラリッサ・エーデルシュタイン。かつて帝都で「聖女」の座にあり、ミーリアを追い落とした女。けれど今、彼女はその過去と決別し、このグリュンハイムの片隅で暮らしていた。公爵家の令嬢だった面影は、結い上げた金髪と、まっすぐな背筋にわずかに残るのみ。日々の彼女は、村の子どもたちに読み書きを教え、病人の枕元で薬湯を煎じ、畑の水やりを手伝う。かつて豪奢な祭壇の上で、何千という民に手を合わせられていた女が、今は泥のついた手で薬草を束ねている。誰もそれを咎めない。彼女自身が、それを望んでいた。
「星導の聖女、ですって」
その名を口にした瞬間、クラリッサの手が止まった。——やはり、知っている。
薬草を束ねていた指が、宙で固まる。彼女は、ゆっくりと顔を上げた。その表情から、いつもの柔らかさが消えていた。
「手をかざすだけで、涸れた泉を蘇らせる。供物を捧げれば、災いを祓う。……ミーリアさま。その『奇跡』の話、もう少し詳しく聞かせてくださいますか」
ミーリアは、フェルデとヴァルトで見たことを、順を追って話した。綻びの自然な波を、自分が癒したと偽る手口。悪化すれば供物が足りないと思わせ、さらに巻き上げる仕組み。
聞き終えたクラリッサは、しばらく目を伏せていた。
やがて、絞り出すように言った。
「あれは……わたくしがいた頃と、同じにおいがします」
「同じ、とは」
「まやかしですわ。本物の力ではない。仕掛けと、演技と、人の不安。——それだけで、聖女は名乗れてしまう。わたくしが、そうでしたから」
クラリッサの声が、かすかに震えた。
彼女は、かつて偽聖女だった。魔導具で核紋の光を偽り、国に仕立てられ、何も知らぬ民に手を合わせられていた。そのすべてが、偽りだった。その事実と向き合い、贖おうと決めたのが、今の彼女だ。
「たとえば、涸れた泉を蘇らせる、という奇跡」
クラリッサは、細い指で、宙に何かを描くように語り始めた。
「本当に涸れていては、演じられません。ですからその女は、綻びの波を読んでいるはずです」
「波を、読む……」
「星脈が自然に小康する、その時を待って現れる。あるいは、あらかじめ堰き止めておいた水を、頃合いを見て流す」
指の動きが、そこで止まった。
「手をかざす仕草は、ただの舞台の飾りです。人は派手な仕草を見せられると、その裏の仕掛けを疑わなくなる」
その口ぶりは、あまりに具体的だった。かつて、自分がそうしていたからこその、生々しさがあった。ミーリアは胸が締めつけられた。
同じまやかしを使いながら、一方はそのまやかしを恥じてこうして人知れず償おうとしている。もう一方は、まやかしを重ね、なお恥じることを知らない。同じ罪の入り口に立ちながら、二人の女が向かう先は正反対だった。クラリッサが自らの古傷をさらしてまで見抜こうとするのは、その正反対の道を放ってはおけないからだ。過去の自分を映す鏡を、これ以上汚させはしないという思いが、彼女を突き動かしている。
「クラリッサ。無理に思い出さなくても」
「いいえ」
クラリッサは、束ねかけの薬草を置いて、立ち上がった。その瞳には、揺れながらも、消えない光があった。
「わたくしも、まいります。あの『星導の聖女』の手口を、この目で確かめたいのです」
「クラリッサ……」
「まやかしを見抜けるのは、まやかしを使った者だけ。それが、わたくしにできる、せめてもの償いです」
ミーリアは、彼女を見つめた。過去に向き合うことが、どれほど痛いか。それを承知の上で、クラリッサは前へ出ようとしている。
「……無理は、しないでくださいね」
部屋の隅で腕を組んで話を聞いていたフェリクスが、口を開いた。
「相手が詐欺師なら、後ろ盾がいる。綻びを利権にしたい小者が、必ず絡んでいるはずだ。荒事になるかもしれん。……だが、あんたが行くと言うなら、俺が二人とも守る」
窓の外では、聖樹が葉を揺らしていた。その枝葉のむこう、西の空の低いところにひとひらの雲が影のように留まっている。クラリッサは、その雲をじっと見つめていた。かつての自分の影を、そこに見るように。




