不安につけ込む者
フェルデを発った街道は、ゆるやかな下り坂だった。
乾いた風が、麦畑の残骸をなでていく。井戸を癒したフェルデとは違い、この先の土地は、まだ星脈の綻びに苦しんでいた。ミーリアには、それが肌でわかる。足の裏から伝わってくる、大地の細かな震え。生命力が、どこかへ吸い取られていく感覚。フェルデの綻びが一筋の裂け目だったなら、この一帯の綻びは、もっと広く、もっと浅く、じわじわと土地全体を蝕んでいた。癒すには、一つ一つ、根気よく流れを繋ぎ直すしかない。
「ミーリアさま。無理はしていないか」
隣を歩くフェリクスが、彼女の横顔をうかがった。井戸の癒しで、ミーリアはまだ本調子ではない。それを、彼は見抜いている。
「大丈夫です。歩ける範囲で、癒していきます」
そのとき、翡翠色の蝶が、ミーリアの肩先に舞い降りた。風の精霊、フィルだった。手のひらほどの半透明な羽が、せわしなく明滅している。
〈むこうの村、へん。みんな、聖女さまの話ばかり〉
フィルは偵察から戻ったばかりだった。落ち着きのないこの精霊は、街道の先を飛び回っては、耳にした声を運んでくる。
「聖女さま……わたしのことでは、ないのですね」
〈ちがう。星導の聖女さま、って〉
ミーリアは、フェリクスと目を合わせた。フェルデの村長が漏らした、あの噂。西の村に、奇跡を起こす聖女がいる。供物を捧げれば、災いを祓ってくれる。——その名が、今、はっきりとフィルの口から出た。
星導の聖女。
聞いたことのない名だった。
* * *
昼過ぎに着いたのは、ヴァルトという小さな集落だった。
ここも畑は黄ばみ、人々の顔には疲れが濃い。けれど、村の広場には、奇妙な祭壇のようなものが組まれていた。粗末な木の台に、麦の束や、干した果実、そして数枚の銀貨が供えられている。貧しい村には、不釣り合いなほどの量だった。祭壇の前では、痩せた女が二人、祈りを捧げている。その足元では、小さな子どもが、供えられた干し果実を物欲しそうに見上げ、母親に手を引かれて離されていた。自分たちの食べる分を削って、台に積んでいるのだ。
「あれは」
「星導の聖女さまへの、お供えです」
答えたのは、ひとりの中年の女だった。頬がこけ、目の下に隈がある。それでも、その口ぶりには、すがるような熱があった。
「三日前、聖女さまがおいでになってね。手をかざしただけで、涸れかけの泉が、また湧いたんですよ。ありがたくて、村じゅうでお供えを集めたんです」
「泉は、今も湧いていますか」
ミーリアが問うと、女の顔が曇った。
「それが……昨日から、また細くなってきて。だから、もっとお供えが足りないんじゃないかって、みんなで……」
ミーリアは、静かに目を閉じた。
この村の星脈を、感じ取る。泉のあった場所。綻びは、癒されてなどいなかった。ただ、綻びには自然の波がある。力が滞る時と、わずかに流れが戻る時と。その一時の小康を、あの「星導の聖女」は、自分が癒したのだと偽ったのだ。
そして、波が引けば、また悪くなる。悪くなれば、村人はさらに供物を積む。——不安を、糧にしている。
あの祭壇に積まれた麦の一束。銀貨の一枚。そのどれもが、誰かの冬の糧だった。子どもの、明日の一食だった。それを、ありもしない奇跡と引き換えに巻き上げる。星脈の綻びよりも、よほど質の悪い綻びが、人の心につけ込んでいる。
ミーリアの指先が、わずかに冷たくなった。それは、寒さのせいではなかった。
「泉に、案内してもらえますか」
女に導かれ、村はずれの泉へ向かう。細く濁った水が、岩の間からかろうじて滲んでいた。ミーリアは膝をつき、水面に両手をかざす。
〈流れを、整えます〉
精霊たちが応えた。淡い光が、岩の隙間へと沁み込んでいく。けれど、この綻びは一筋縄ではいかなかった。あちこちで細く裂けた流れを、ひとつずつ手繰り寄せ、本来の道へ導き直す。糸のもつれをほどくような、根気のいる作業だった。ひとつ繋げば、別の場所がまた滞る。ミーリアは呼吸を整え、精霊たちと息を合わせ、乱れた脈を一本ずつ、丁寧に編み直していった。
額に、汗が滲む。滲んでいた水が、少しずつ、透明さを取り戻していく。やがて岩の隙間から、澄んだ流れが勢いよく噴き出した。泉は、みるみるうちに水を湛えていく。
「湧いた……ほんとうに、湧いた」
いつのまにか後をついてきていた村人たちが、口々に声を上げた。子どもが泉に駆け寄り、両手で水をすくって、頬に当てる。その冷たさに、きゃっと笑った。その無邪気な笑い声を聞いて、強張っていた大人たちの顔も、ようやく少しだけ緩んだ。
案内の女が、その場に膝を折った。
「おいくら……いえ、何をお供えすれば」
「いりません」
ミーリアは、女の手を取って、立たせた。
「聖女の力は、供物で買うものではありません。あなたたちの麦も、銀貨も、返してもらってください。冬を越すのに、必要なものでしょう」
女は、しばらく言葉を失っていた。それから、こらえきれずに、しゃくり上げた。ミーリアは、その背を、そっとさすった。
* * *
その夜、ヴァルトの外れで火を囲みながら、フェリクスが低く言った。
「見え透いた手口だ。だが、うまい。綻びの波を、村人は知らない。だから、小康を『奇跡』と信じ、悪化を『供物不足』と思い込む。永遠に搾り取れる」
「ええ。……許せません」
ミーリアの声は、静かだった。けれど、その静けさの奥に、確かな熱があった。フェリクスは、火の向こうの彼女を見つめた。
「らしくないな。あなたが、そこまで言うのは」
「聖女の力は、誰かを救うためのものです。それを、誰かを騙して奪う道具にされるのは……祈りそのものを、汚されている気がして」
ミーリアは、膝を抱えた。追放されたあの日、彼女は聖女であることを否定された。力を、疎まれた。だからこそ、力そのものを金儲けの看板に貶められることが、我がことのように痛かった。
「なら、その『星導の聖女』とやらを、あなたの本物の力で、黙らせてやればいい。俺は、そのために剣を持っている」
ミーリアは、彼を見た。揺れる炎が、フェリクスの横顔を照らしている。その言葉の、まっすぐさに、胸の奥が小さく温もった。
「……はい。頼りにしています」
肩先で、フィルが翡翠色に光った。まるで、二人をからかうように。
〈ねえねえ、その聖女さまの噂〉
精霊は、羽をひらめかせた。
〈グリュンハイムのほうにも、流れてってる。クラリッサ、って人が、すごく怖い顔してた〉
ミーリアの背筋を、冷たいものが走った。
クラリッサ。かつて国に仕立てられ、改心して辺境に生きる、元偽聖女。その彼女が、この噂に怖い顔をした。——ただの噂ではない。何かを、知っている顔だ。
火の粉が、夜空へ舞い上がる。西から吹く風が、どこか遠くの祭壇の匂いを運んでくるようだった。ミーリアは膝の上で指を組んだまま、その匂いが消えるまで動かなかった。




