務めとしての力
フェルデの村は、想像より小さかった。
三十軒ほどの家が、乾いた大地に寄り添うように建ち並んでいた。瓦屋根の色も褪せて、全体が砂ぼこりに覆われているようだった。畑に目をやれば、麦の葉先が黄ばみ、力なく垂れている。水がなければ、この村はひと月と保たない。ヨナスの足取りが速くなるのも、無理はなかった。
「こっちです、聖女さま。井戸は、村の真ん中に」
案内するヨナスの声は、掠れていた。喉が渇いているのだ。村の入り口で、ミーリアはひとりの老人に迎えられた。腰の曲がった、白髪の男。この村の長だという。
「よくぞ、おいでくださった」
村長は、深く頭を下げた。ミーリアは慌てて、その肩に手を添える。
「頭を上げてください。まずは、井戸を見せていただけますか」
村の中心に、ミーリアは井戸を見つけた。
石造りの枠組みは古く、ロープもバケツも、すべてが干上がったかのような灰色をしていた。村人たちが集まり、井戸の底をのぞき込んでいた。数人が交代で、ロープを降ろそうと試みている。けれど何度やっても、カタン、と乾いた音が返るだけで、桶は濡れもせずに上がってくる。
「ほんとうに、涸れてるんだ」
ミーリアは、ヨナスに促されて、井戸のすぐそばに立った。
冷たい風が彼女の頬をなでた。通常の風ではない。星脈がきしむ音。破裂を避けるため歪んだ力の流れが、大地から吹き上げていたのだ。ミーリアは目を閉じた。
心を研ぎ澄ます。
星脈を感知する。感じる。
グリュンハイムから峠を三つ隔てた、この村の地の底。そこを流れる星脈に、綻びが生じている。涸れた井戸は、地表に近い綻びの位置で水脈を断っていた。綻びの周囲では星脈の流れが滞り、土地の生命力が吸い取られている。畑が黄ばんでいたのも、そのせいだった。土そのものが、静かに死につつある。
大崩落から百年以上。封印は、まだ、完全ではなかったのだ。
「ミーリアさま」
フェリクスが、彼女の肩に手を置いた。
「どうした。顔色が」
「大丈夫です。ただ……」
ミーリアは、ゆっくりと目を開けた。
「聖女の、務めを感じているだけです」
かつて、彼女は追放された。聖女として認められず、むしろ聖女だから嫌われた。そのときの傷は、今でも心の奥底にある。けれど、その傷があるからこそ、ミーリアは知っていた。聖女であることが、必ずしも栄誉ではなく、ときに責任だということを。
この土地が苦しんでいる。ミーリアに、その苦しみが届いている。
だから、彼女は、その痛みを癒すだけのことをする。
「村人たちを、集めてくれますか」
ミーリアはヨナスに言った。ヨナスは急いで走り去る。
十分ほどで、村人たちが広場に集まった。老人から子どもまで、三十人ほど。皆、心配そうな顔をしていた。井戸が涸れれば、畑も枯れる。畑が枯れれば、冬を越せない。その不安が、顔に出ていた。人垣の隅で、母親の裾を握った小さな少女が、じっとミーリアを見上げていた。
「これから、綻びを癒します」
ミーリアは、村人たちの前で、そう宣言した。
「恐れることはありません。危機ではなく、務めです。聖女の、務めです」
彼女は井戸の縁に両手を置いた。そして、星脈に、語りかけた。
〈聞こえていますか〉
返ってきたのは、多くの声だった。大地の。水の。風の。すべての精霊が、ミーリアの呼びかけに応答した。グリュンハイムに集う精霊たちではなく、この地に根ざす古い精霊たちが。もっと小さく、もっと古い声が。
〈助けて〉
それが、彼らの願いだった。
ミーリアの手から、淡い光が流れた。決して派手ではない。けれど、確かな光。その光は、井戸の中へ、そして地下へと流れ込む。星脈の綻びに向かって、一直線に。
ミーリアの額に、冷たい汗が流れた。
綻びを塞ぐのは、簡単ではない。星脈の流れを整え、破裂の危険を避けながら土地の生命力を取り戻す。その三つのバランスを、ミーリアは同時に保たなくてはならなかった。指先の一本でも力を緩めれば、綻びは逆に広がり、村ごと大地に呑まれる。
膝が、震えた。
ふらついた身体を支えたのは、背後からのフェリクスの腕だった。彼は何も言わず、ただ彼女が倒れぬようにその背に手を添え続けた。その手のひらの熱が、冷え切っていくミーリアにわずかな芯を残した。
「……ありがとう」
ミーリアは、前を向いたまま、小さく言った。
これが聖女であることの、本当の意味だ。誰かのためではなく、大地のために。土地のために。そこに暮らす人々のために。栄誉も、名前も、関係ない。ただ、癒す。それだけ。
ミーリアは、歯を食いしばった。
光はより強くなり、やがて、井戸全体を包み込んだ。村人たちは、その光に思わず目を細める。
その瞬間だった。
井戸の底から、水の音がした。
カチリ、カチリ、と。やがてそれは、シャア、という音に変わった。水が戻ってきたのだ。井戸の底から、水が湧き出したのだ。
「水だ!」
誰かが叫んだ。
他の村人たちも、声を上げた。老人が、子どもが、次々と井戸に駆け寄り、そして、湧き上がった水を見て、喜びの声を上げる。裾を握っていた少女が、母親の手を振りほどいて駆け出した。井戸から汲み上げられた最初のひと椀を、少女は両手で受け取り、ミーリアのもとへ運んでくる。
「聖女さま。お水」
差し出された椀の水は、澄んでいた。ミーリアは膝を折り、少女の目の高さで、それを受け取った。
「ありがとう。いただきます」
ひと口飲むと、冷たさが喉を滑り落ちていく。少女が、はにかんで笑った。
ミーリアはゆっくりと立ち上がった。光が消える。両手は冷え切り、呼吸も浅い。けれど顔には、静かな達成感があった。
「これが、聖女の務めです。追放されたいま、初めて、その意味が分かった気がします」
フェリクスが何か言いかけたとき、ミーリアの背後で風の精霊フィルが翡翠色の光を明滅させた。彼女が星脈を通じて呼びかけた精霊たちが、まだ周囲に集まっているのだ。
光の粒子が、井戸の周りを舞う。踊るようでもあり、祝福するようでもあった。感謝の返礼のように。
村人たちは、その光景に、息を呑んだ。
井戸から湧き上がる水。その上で、光り輝く精霊たちの踊り。枯れていた大地が、少しずつ、その色を取り戻していく。
村長が、震える手で杖をつきながら、ミーリアのそばへ寄ってきた。
「本物の、聖女さまだ。……いや、こんなことを言うのは、あなたさまに失礼かもしれんが」
老人は、言いにくそうに口ごもった。
「実はな。西のほうの村で、奇跡を起こす聖女さまがいる、という話を聞いておったのです」
視線が、井戸のほうへ逃げた。
「供物を捧げれば、どんな災いも祓ってくださると。……だから、うちの井戸も、そちらにお願いすべきかと、迷っておった」
ミーリアの胸の奥で、小さな引っかかりが生まれた。
西の村。奇跡を起こす聖女。供物。——聖女の力は、供物で売り買いするものではない。星脈の癒しに、対価を求めたことなど、一度もない。
「その聖女さまの、お名前は」
「さあ。名は聞かんが、たいそうな評判で」
フェリクスが、ミーリアと目を合わせた。彼の瞳にも、同じ翳りが差していた。
ミーリアは、フェリクスに身を預けるように、一歩を踏み出した。
「行きましょう。まだ、畑も癒す必要があります」
彼女の声は穏やかだった。けれどその瞳には、任務を果たす者の静かな光と拭いきれない一片の疑念が、ともに宿っていた。
日はまだ高い。太陽はフェルデの上できらきらと輝いていた。その光の届かぬ西の空だけが、うっすらと霞んでいた。




