遠い村の枯れた井戸
若木が芽吹いてから、七日が過ぎた。
その朝も、ミーリアは畑のいちばん端に立てた小さな柵の前で腰をかがめていた。手のひらほどの高さに伸びた若木は朝露を弾いて、うっすらと銀色に光っている。ふつうの木なら、こんな短い間にここまで伸びることはない。けれどこの若木は、まるで大地の歌に急かされるように、日ごとに背を伸ばしていた。
「おはよう。今日も、元気そうね」
語りかけると、葉先がかすかに揺れた。風はないのに、だ。肩のあたりで光の粒がふわりと舞う。精霊のフィルが若木のまわりを嬉しそうに飛びまわっているのだった。
よく晴れた朝だった。温泉宿のほうからは朝湯の湯気が細くのぼり、薬草園ではロッテとクラリッサが乾燥棚に薬草を並べている。フェリクスは今朝も早くから山へ入り、罠の見回りに出ていた。
この谷に来てから、ミーリアの朝はいつもこうして始まる。追われることも責められることもない。ただ土に語りかけ、湯に浸かり、村の人たちと笑い合う。それだけの朝。
だから、その静けさを破る蹄の音に、ミーリアは真っ先に気づいた。
* * *
山道を駆け上がってきたのは、痩せた若い男だった。
馬は汗だくで、乗り手も着ているものが埃にまみれている。遠くから休みなく駆けてきたのだとひと目でわかった。男は広場の手前で馬を降りると、崩れるようにその場に膝をついた。
「聖女さまは……本物の聖女さまは、こちらにおられると聞いて……!」
村人たちが、驚いて駆け寄る。ハンス村長が、男を抱き起こした。
「落ち着きなさい。水を。……さあ、ゆっくりでいい。どこから来なさった」
男は、差し出された椀の水を一息に飲み干すと、荒い息のまま顔を上げた。
「西の……峠を三つ越えた先の、フェルデという村の者です。お願いです、どうか、村を助けてください」
ミーリアは、人垣を分けて前に出た。男の目が、すがるようにミーリアを捉える。
「わたしが、ミーリアです。何が、あったのですか」
男は、震える声で語りはじめた。
「井戸が……村じゅうの井戸が、いっぺんに涸れたんです。ひと月ほど前から、じわじわと水が減っていって……とうとう、先日、最後のひとつまで枯れちまった。畑の作物も、根元から枯れていく。雨は降っているのに、土が水を飲まねえんです」
* * *
その話を聞いた瞬間、ミーリアの背筋を、冷たいものが走った。
雨は降っているのに、土が水を飲まない。井戸が理由もなく涸れる。ただの日照りや不作ではない。もっと深いところ——大地そのものの流れが、どこかで滞っている兆しだった。
「土が、水を飲まない……」
ミーリアは思わずつぶやいた。かつてアリーシアの記憶を受け取ったとき、教えられたことがある。星脈——この大陸の地の底を巡る命の流れ。それが健やかに巡っているかぎり、大地は水を蓄え作物を実らせる。けれど、その流れのどこかに「綻び」が生じると、大地は少しずつ命を手放していく。
大崩落の名残。かつての戦いで傷ついた星脈が、長い年月をかけてあちこちに小さな傷を残している。その傷が今、フェルデという村の地の底で口を開けているのかもしれない。
「フィル」
ミーリアが呼ぶと、風の精霊がすっと肩に降りてきた。若木のまわりを飛んでいたときのはしゃいだ気配はもうない。フィルもまた西の空を見て、かすかに身を震わせていた。
精霊が怯えている。それが、何よりの証だった。
* * *
「行きます」
ミーリアが言うと、村人たちがどよめいた。
「ミーリアさま、しかし、峠を三つも越えた先ですぞ」
ハンス村長が案じる声を上げる。フェルデはこの谷とは何のつながりもない遠い村だった。助けに行く義理など、どこにもない。
「あんな遠くの村のことまで、ミーリアさまが背負うことは……」
村の誰かが、そう言いかけた。その気持ちもわかる。この谷の人たちはミーリアを守りたいのだ。せっかく手に入れた穏やかな暮らしを、遠くの厄介事で乱されたくない。その優しさはミーリアには痛いほど伝わってくる。
けれどミーリアは、首を横に振った。
「わたしは、追放されたとき、思ったんです。もう誰のことも救わなくていい。誰にも求められていないのだから、って」
村人たちが、口をつぐんだ。
「でも、違いました。この谷が、わたしを求めてくれた。大地が、わたしに歌いかけてくれた。……今度は、フェルデの土が、助けを求めています。わたしにしか、その声は聴こえない。だったら、行かないわけには、いきません」
かつて、聖女の座を追われた娘だった。もう二度と誰かに必要とされることはないと思っていた。けれど今、遠い村の大地がミーリアの名を呼んでいる。罰でも義務でもない。求められて土を癒しに行く——それは追放されたあの日には想像もできなかった、聖女としての「務め」だった。
* * *
「なら、俺も行く」
低い声が、背後から響いた。
振り返ると、いつの間にか山から戻ってきたフェリクスが腰に山刀を提げて立っていた。琥珀色の目がまっすぐにミーリアを見ている。
「峠を三つ越える道は、獣も出る。ミーリアさま一人で行かせるわけにはいかない」
「フェリクス……」
「それに」
フェリクスはふいにほんの少しだけ目をそらした。日に焼けた頬がわずかに赤い。
「あんたが遠くへ行くのを、黙って見送るのは、性に合わねえ」
ぶっきらぼうな言葉だった。けれどその不器用さがかえってミーリアの胸を温かくした。頬がゆるむ。
「……ありがとう。心強いです」
「若木のことは、任せて」
ロッテが、薬草の束を抱えたまま歩み寄ってきた。その隣で、クラリッサも小さくうなずく。
「留守は、わたくしたちが守りますわ。フェルデのことは、どうか、ミーリアさまの手で」
クラリッサの声は落ち着いていた。けれどその瞳の奥には、ミーリアには読み取れない翳りがあった。西の村。涸れた井戸。その言葉に彼女は一瞬、遠くを見るような目をした。
けれどミーリアは、そのわずかな翳りにまだ気づかなかった。
* * *
旅支度は、すぐに整った。
マルタが握り飯を持たせてくれ、ハンス村長が道中の地図を描いてくれた。若い男——フェルデの使いはヨナスと名乗った。彼が先導し、フェリクスとミーリアが続く。三人と一頭の、小さな旅立ちだった。
村のはずれまで、大勢が見送りに出た。
「気をつけて」「無理はなさらねえで」
口々にかけられる声に、ミーリアは何度も振り返って手を振った。若木の柵のそばでテラとアクア——二体の精霊が寄り添うように光っている。若木は行ってらっしゃいとでも言うように、葉先を揺らした。
山道を下りながら、ミーリアは西の空を見上げた。
薄い雲の向こう、峠のかなたにフェルデの村がある。今このときも村人たちは、涸れた井戸を覗き込み、枯れていく畑を見つめ、途方に暮れているのだろう。その光景を思うと、足が自然と速くなった。
「急ぎましょう」
ミーリアは、隣を歩くフェリクスに言った。フェリクスが、無言でうなずく。
穏やかな谷を離れ、三人は乾いた大地の待つ西へと歩き出した。ミーリアの胸の奥で、まだ見ぬフェルデの土がかすかに、それでも切実に、助けを求めて疼いていた。




