芽吹きのあとで
双葉が顔を出してから、幾日か経った。
小さな双葉は日ごとに背を伸ばし、今では本葉を二枚広げていた。淡い緑の葉は、朝日を透かすと葉脈がほのかに白銀に光る。その葉脈の奥を、細い星脈が確かに流れていた。
ミーリアは毎朝その若木に水をやるのが、日課になっていた。
「おはよう。今日も、きれいな光だね」
語りかけると、傍らのテラが嬉しそうにころころと転がった。この若木はすっかりテラのお気に入りの場所になっている。フィルとアクアも、暇さえあれば若木の周りをのんびりと舞っていた。
どんな花が咲くのか。どんな実がなるのか。まだ何もわからない。それでも、この小さな命が日に日に育っていくのを見るのが、ミーリアにとって何よりの楽しみになっていた。
思えば、この種は長いあいだ眠り続けていた。夜ごと淡く光り、辺境を騒がせた騒動の間は怯えるように不規則に脈打ちながら、それでも土の中で時を待っていた。事件が終わり、リーナが帝都へ発つのを見届けてから、ようやく芽を出したのだ。この谷に平穏が戻るのを待っていたかのように。
* * *
その日の昼、オットーの荷馬車が、谷に帰ってきた。
「ミーリアさま、頼まれてたもんは、ちゃんと持ってきたよ」
荷を下ろしながら、行商人がいつもの人懐こい笑顔を見せた。ミーリアは一通の手紙をオットーに差し出した。
「オットーさん。この手紙を、迷宮都市のカスカーラへ、届けてもらえますか。カイトさん、という人に」
「カスカーラのカイト、だな。承知した。次の東回りの便で、必ず届けるよ」
オットーが手紙を大切そうに荷の内側へしまった。カイトへの手紙。芽吹いた種のこと、白銀に光る不思議な若木のこと。そして、なぜこの種を自分に託してくれたのか。ミーリアのたくさんの問いが、その一通に込められていた。
カイトと顔を合わせたのは、聖域山脈で過ごしたあの数日だけだった。無愛想で、ろくに目も合わせない少年。それでも星脈の話をするときだけ、声の硬さがわずかに緩んだ。その彼が迷宮の深い場所で見つけた種を、わざわざ遠い辺境の自分に送ってくれた。理由はまだわからない。けれどこの若木を見ていると、きっと何か大切な意味があるのだとそんな気がしてならなかった。
「そういや、帝都のほうもな」
オットーが、声をひそめた。
「例の、聖女制度の作り直しって話、だいぶ進んでるらしいぜ。あの令嬢さまが、精力的に動いてるってさ」
「リーナさま……」
ミーリアは微笑んだ。帝都でリーナが夢に向かって走っている。その姿が、目に浮かぶようだった。
* * *
オットーが去ったあと、ミーリアが薬草園に戻ると、マルタとロッテが何やら楽しげに話し込んでいた。
「あら、ミーリアさま。ちょうどよかった」
マルタが、にんまりと笑って、こちらを見た。
「ねえ、聞いてくださいよ。村のみんなで、もう話してるんですよ。ミーリアさまとフェリクスさんの、お式のこと」
「お、お式……!?」
ミーリアは、手にした桶を取り落としかけた。
「お、お式は……その、まだ、日取りも決まっていませんし……!」
「隠さなくていいさ」
ロッテが、腰に手を当てた。
「あの朴念仁のフェリクスが、あんたのことになると、途端に不器用になるんだ。村じゅう、とっくにお見通しさ。あたしゃ、あんたらの門出を見るのが、今から楽しみでねえ」
ミーリアは俯いて、耳の裏まで熱くなるのを感じた。ちょうどそのとき、山の見回りから戻ってきたフェリクスがその話を聞いてしまったらしい。彼は何も言わず、薪割り場のほうへ足早に去っていった。
祝言。聖樹の前で誓いを交わした日から、その言葉はずっと胸の隅にあった。追放されてこの谷に流れ着いたときは、明日のことさえ考える余裕がなかった。それが今は、村のみんなが自分たちの門出を我がことのように楽しみにしてくれている。フェリクスと二人で歩いていく道が、一日ずつ形になっていく。ミーリアは赤くなった頬を両手で押さえた。
* * *
穏やかな午後だった。
湯煙が谷に立ち上り、精霊たちが薬草園の上を舞っている。畑では村人たちが笑い声を交わしながら働いていた。ミーリアは水やりを終えた若木の前でしゃがみ込んだ。
のんびり暮らしたい——その願いは、今も胸の真ん中にある。けれど、この谷の毎日はただのんびりしているだけではなかった。守りたい人がいて、育てたい命があって、隣に寄り添ってくれる人がいる。忙しないけれど、温かい。そんな日々が、ミーリアはたまらなく好きだった。
その時だった。
山道の下から一人の男が、息を切らして駆け上がってきた。見慣れない顔だった。近くの村の者だろうか。男は広場にいたハンス村長を見つけると、すがるように駆け寄った。
「た、頼む……! 辺境の聖女さまに、助けを求めに来たんだ!」
その声に、広場がしんと静まり返った。楽しげだった村の空気が一瞬で張り詰める。男は汗と土にまみれ、ずいぶんと長い道のりを駆けてきたようだった。ハンス村長が慌てて男を支え、水を飲ませる。ミーリアもフェリクスも、その只事でない様子に足を向けた。
* * *
男は、隣の谷にある、小さな村から来たのだと言った。
「うちの村で、井戸が、急に涸れちまったんだ。畑の作物も、次々と枯れて……村のもんは、みんな、途方に暮れてる」
ミーリアははっとした。井戸が涸れ、作物が枯れる。かつてこの辺境が痩せ細っていた頃の光景と、よく似ていた。土地の生命力が失われていく兆候だ。
「その村は、どのあたりですか」
「東の、峠を越えた先だ。……聖女さま。どうか、どうか、うちの村を、救っちゃくれねえか」
男の必死な顔を、ミーリアはまっすぐに見つめた。
断るという選択は、はじめからなかった。困っている人を放っておけない。追放されたあの頃から、何も変わらない自分の芯だった。
それに、とミーリアは思う。井戸が涸れ、土地が枯れる。もし原因が自分の考えている通りなら、この辺境だけの話では済まない。大地を巡る星脈のどこかで生じた綻び。それを癒せるのが自分だけなのだとしたら……もう聖女としての務めだった。
「わかりました。すぐに、向かいます」
「俺も行く」
間を置かず、フェリクスが言った。
「東の峠は、道が険しい。一人じゃ、行かせられん」
「ありがとうございます、フェリクスさん」
ミーリアが頷くと、傍らのテラが若木のそばで、かすかに、けれど不安げに光を揺らした。遠い峠の向こうに何か厄介なものの気配を感じ取っているかのように。峠から吹き下ろす風が、その日は少しだけ乾いた匂いを含んでいた。




