種が芽吹いた
リーナが帝都へ発ってから、数日が過ぎた。
辺境には、いつもの日々が戻っていた。朝は薬草園に水をやり、昼は畑を手伝い、夕には温泉に浸かる。ドナートの騒動も、リーナとの日々も、少しずつ思い出になりつつあった。
けれど、一つだけ変わったことがあった。
カイトの種を植えた、あの一角。あの騒動の間、不規則に明滅し時に怯えるように脈打っていた種が、リーナが去ってからというもの日に日に光を強めていたのだ。
その朝もミーリアは、いつものように畝の前にしゃがんだ。
「おはよう。今日も、元気そうだね」
土に手を当てる。温かい。以前よりずっと。土の奥で脈打つ何かが、確かに大きくなっている。
「もう少しで、何か出てきそう?」
語りかけても、返事はない。けれど傍らのテラが、ちかりと光って応えた。
〈もうすぐ。もうすぐ〉
「もうすぐ、かあ。楽しみだね」
ミーリアは微笑んで立ち上がった。まさかその夜に、それが起きるとは思いもせずに。
* * *
異変が起きたのは、その日の夜だった。
夕餉を終えたミーリアが、寝る前にもう一度、畝の様子を見に行ったときのこと。薬草園の一角が、闇の中で淡く光っていた。
いつもの、土の下から滲む微光ではない。もっとはっきりとした光。ミーリアは息を呑んで駆け寄った。
畝の土が、ゆっくりと盛り上がっている。その中心から——一本の小さな芽が、顔を出していた。
思わず、声も出なかった。半月ものあいだ水をやり語りかけ、見守り続けてきた種。それが今、確かに小さな命を地上へ伸ばしている。ミーリアの胸に、じんわりと喜びが広がっていった。
「芽が……出た」
ミーリアは、その場に膝をついた。
けれど、それはただの芽ではなかった。
* * *
双葉が、淡く光っていた。
白銀の光。ミーリアが星脈共鳴を使うときに瞳に灯るのと、同じ色。その光が小さな双葉の葉脈をゆっくりと巡っている。とくん、とくんという大地の鼓動に合わせて葉先がかすかに明滅していた。
この芽そのものが、星脈と繋がっている。
テラが畝の傍らで、いつになくじっとその芽を見つめていた。フィルとアクアも、いつの間にか集まっている。三体の精霊は、はしゃぐでもなく怯えるでもなく、ただ静かにその小さな芽に寄り添っていた。
「ミーリア」
声に振り返ると、フェリクスが立っていた。薬草園の妙な光に気づいて、山の見回りから駆けつけたらしい。
「これは……種か」
「はい。やっと、芽が出たんです。でも……」
「ああ。普通の芽じゃ、ないな」
フェリクスも、その白銀の光をじっと見つめた。山のものを見慣れた彼の目にも、この芽は明らかに異質に映るようだった。
「精霊たちが、落ち着いてる。悪いものじゃ、なさそうだ。……だが」
「だが?」
「なんだか、大きなものになる気がする。山の獣が、大物の気配を前にしたときみたいに、そわそわするんだ」
「テラさん。この子、いったい……」
ミーリアが問いかけると、テラがゆっくりと明滅した。
〈聖樹に、似てる。でも、違う〉
「聖樹……?」
その言葉に、ミーリアははっとした。
「聖樹に似てるけど、違う……。テラさん、それって、どういうこと?」
〈わからない。でも、あったかい。いい子〉
テラはそれ以上は言葉にできないようだった。ただ、その芽を大切そうに見守っている。
* * *
聖樹。
この辺境の言い伝えに残る名前だった。かつて大聖女がこの地に植えたという、大地を守る木。今はもう根の一部を残すのみとなった、伝説の樹。
似ている。けれど、違う。
ミーリアの脳裏に、リーナの言葉が蘇った。この種を鑑譜眼で聴いたとき、彼女はこう言った。帝国のものではない、地の底から響くような、重く古い旋律だと。
カイトが、ダンジョンの深い場所で見つけた種。
この芽は、ただの植物ではないのかもしれない。ミーリアはそっと、光る双葉に指を近づけた。触れる直前、指先にぴりりと星脈の気配が伝わってくる。生まれたばかりの、小さな命。けれどその奥には、途方もなく大きな何かが眠っている。そんな予感がした。
けれど、不思議と怖くはなかった。悪いものなら、精霊たちが真っ先に逃げ出すはずだ。それが、こうして寄り添っている。この芽はきっと守るべきもの。カイトが遠い迷宮の底から託した種。その意味が、きっとどこかにあるのだ。
* * *
その夜、ミーリアは机に向かった。
ランプの灯りの下で、羽ペンを手に取る。宛先は、迷宮都市カスカーラ。あの、無愛想だけれど、心根の優しい少年——カイトのもとへ。
カイトさんへ。あなたが送ってくれた種が、とうとう芽を出しました。ミーリアは、そう書き出した。けれど、これはきっと、ただの芽ではありません。星脈の光を纏って、大地と一緒に、脈打っているのです。精霊たちは、聖樹に似ている、と言います。あなたは、この種を、どこで見つけたのですか。
書きながら、ミーリアの胸は静かに高鳴っていた。不安と、それ以上に期待で。
「あなたは、いったい、何になるのかな」
ミーリアは羽ペンを止めて、窓の外の淡く光る双葉を見つめた。
「聖樹……? それとも、もっと別の、何か。……ふふ、なんだか、わくわくしてきちゃった」
のんびり暮らしたい。その願いは今も変わらない。でも、小さな謎が暮らしの中に芽吹いていくのも、悪くない。
窓の外では、月が谷を照らしている。薬草園の一角で、白銀に光る双葉が夜風に揺れていた。
その光は、迷宮都市のある東の方角へとかすかに揺れているように見えた。種を託した少年に、芽吹きを報せているかのように。ミーリアは書きあげた手紙を畳んだ。明日、オットーに託そう。この芽のことを、きっとカイトは、心待ちにしてくれるはずだから。
辺境の日々は、これからも続いていく。その穏やかさの真ん中で、小さな光がひとつ静かに——それでも確かに——これから始まる何かの芽をゆっくりと伸ばしはじめていた。




