令嬢を見送る朝
旅立ちの朝は、よく晴れていた。
谷を満たす湯煙が朝日を受けて金色に輝き、集会所の前の広場にはリーナを見送ろうと村人たちが大勢集まっていた。従者たちが馬車に荷を積み込んでいる。
この谷に来たばかりの頃、従者たちは湯煙を火事と間違えて腰を抜かし、精霊の光に悲鳴を上げていた。それが今では村人と冗談を言い合い、精霊たちに気軽に手を振るまでになっている。旅立ちの荷を積む顔に、名残惜しさが滲んでいた。
「お世話になりましたわ、みなさん」
リーナが村人たちに向かって、深々と頭を下げた。帝都の令嬢が辺境の民に頭を下げる。ひと月前なら考えられない光景だった。
「令嬢さま、また来てくだせえよ」
「温泉は、いつでも空けときますからね」
村人たちが口々に声をかける。リーナはその一人ひとりに笑顔で応えていった。
* * *
「ミーリアさま」
リーナが、ミーリアの前に立った。
「短い間でしたけれど、本当に、多くのものをいただきましたわ。聖女とは何か。制度とは何のためにあるのか。……そして、人が変われるということ」
「わたしのほうこそ。リーナさまに、たくさんのことを教わりました」
ミーリアが言うと、リーナは首を小さく振った。
「いいえ。教わったのは、わたくしのほうですわ。……ねえ、ミーリアさま。わたくし、帝都に戻っても、きっと、この谷を思い出しますの。行き詰まったときには、あなたのくれた言葉を、何度でも読み返しますわ」
リーナは大切そうに、あの帳面を胸に抱いた。
帳面には、この谷で過ごした日々のすべてが詰まっていた。制度の草案だけではない。薬草の名前、温泉の効能、村人たちとの何気ないやり取り。ページをめくれば辺境の時間が甦る。そんな帳面だった。
「だから、また来ますわ。制度がどう育ったか、報告しに。……その時は、また、温泉に入れてくださいまし」
「はい。いつでも」
ミーリアは微笑んで、頷いた。
* * *
馬車に乗り込む前、リーナは、ふと足を止めた。
少し離れた場所に立つフェリクスをちらりと見てから、ミーリアの耳元にそっと顔を寄せる。
「ミーリアさま。最後に、一つだけ」
「はい?」
「あの山守の殿方とは、そろそろ、進展がありまして?」
ミーリアの顔が、かっと熱くなった。
「り、リーナさま……!」
「あら、隠さなくてもよろしいのに。あの方、あなたを見る目が、それはもう、わかりやすいんですもの。……村のみなさんも、お二人がいつ夫婦になるのか、心待ちにしておりましてよ」
リーナがいたずらっぽく笑うと、近くにいたマルタやロッテまでもがうんうんと頷いた。この話はとっくに村じゅうの楽しみになっているらしかった。
「そ、そんな……」
ミーリアが真っ赤になって俯く。少し離れた場所で、フェリクスも決まり悪そうにそっぽを向いていた。耳が、ほんのりと赤い。
思えばフェリクスは、いつだってミーリアのそばにいた。危ないと言っては前に立ち、山から下りれば真っ先に薬草園を覗き、ぶっきらぼうに花を摘んできては差し出す。その不器用な優しさに、ミーリアは何度も救われてきた。
* * *
「ふふ。次に来たときには、良い報せを聞かせてくださいましね」
リーナは満足そうにそう言って、今度こそ馬車に乗り込んだ。
窓から顔を出し、ひらりと手を振る。ミーリアも、村人たちも、大きく手を振り返した。従者が手綱を打つと馬車がゆっくりと動き出し、車輪が朝日に照らされた山道を下りはじめた。
「リーナさま、お元気で……!」
ミーリアは遠ざかる馬車に向かって、精一杯、声を張り上げた。
馬車はやがて山道の角を曲がり、湯煙の向こうへと消えていった。鳥の声。かすかな湯煙の匂い。賑やかだったひと月が、まるで夢のようだった。けれど、胸の内に刻まれたものは本物だった。
ひと月前、リーナが来ると聞いたとき、ミーリアは内心少しだけ身構えていた。かつて自分を追放した、あの冷たい世界の人。けれどリーナは違った。真っ直ぐで、聡明で、自分の間違いを認められる強さを持っていた。裁く側にいた令嬢と裁かれた側の聖女が友になれたのも、この辺境が結んでくれた縁なのかもしれない。
「行っちまったねえ」
ロッテが、ぽつりと言った。
「ああ見えて、いい娘だったよ。最初は、お高くとまった令嬢かと思ったけどねえ」
「わたしも、最初は緊張しました。でも、すぐに、大好きになっちゃって」
「はは、あんたはすぐ人を好きになるからねえ」
ロッテが、豪快に笑った。
「はい。……また、きっと来てくれます」
ミーリアは、馬車の消えた方角を見つめて頷いた。
また来る、とリーナは言った。その言葉に嘘はないと、ミーリアにはわかる。人と人との縁は一度結ばれれば離れていても消えたりはしない。リーナが帝都で制度を育て、自分が辺境で暮らしを守る。遠く離れても、二人は同じ夢の別々の場所を耕しているのだ。
* * *
村人たちが、それぞれの一日へと散っていく。広場に、いつもの朝が戻ってきた。
ミーリアは、隣に立ったフェリクスを見上げた。まだ少し決まり悪そうな顔をしている。さっきのリーナの言葉が、まだ尾を引いているらしい。
「フェリクスさん」
「……なんだ」
「なんでも、ないです」
ミーリアは、くすりと笑った。今は言葉にしなくていい。この日々が二人の歩幅でゆっくりと育っていけばいい。そんな気がした。
急ぐ必要はなかった。薬草が季節をかけて根を張るように、二人の間にあるものもこの谷の時間の中でじっくりと育てていけばいい。そう思うと、胸の奥がふわりと軽くなった。
二人は並んで、薬草園への道を歩きはじめた。朝露に濡れた草が朝日を弾き、足元でちいさく光っている。朝風が二人の間を吹き抜けて、カイトの種を植えた畝をゆらした。土が、息をしていた。




