本物の聖女制度第一歩
リーナが帝都へ戻る日が、近づいていた。
ドナートの一件で制度改革の機運は一気に高まっている。今こそ帝都で本格的に動く時だと、リーナは言った。辺境で温めてきた草案を、いよいよ国の仕組みとして形にするのだ。
思えば、リーナがこの谷に来てから、ひと月あまり。湯煙にも精霊にも戸惑っていた帝都の一行が、今ではすっかり辺境に馴染んでいた。短いようで、濃い日々。そのすべてが、あの帳面の一行一行に染み込んでいる。
「名残惜しいですけれど。わたくしの戦場は、やはり帝都ですもの」
集会所の一室で、リーナはすっかり書き込まれた帳面を愛おしそうに撫でた。辺境に来た頃、ところどころ白紙だったその帳面は、今や隅々まで二人の言葉で埋まっている。
「でも……わたし、制度のことなんて、結局、大したお手伝いはできませんでした」
ミーリアが申し訳なさそうに言うと、リーナはくすりと笑った。
「あら。何を仰いますの」
* * *
「あなたは、この改革の、一番大切な部分をくださいましたわ」
リーナは、帳面の最初の頁を開いた。
かつて、まっさらだった一頁目。「聖女とは何か」を記すべき、最も肝心な場所。そこには今、しっかりとした字で、こう書かれていた。
——聖女とは、土を耕すように、人を活かす者なり。
「この一文が、すべての土台ですわ。力の強さでも、血筋でもない。誰かを、どう活かしてきたか。……これを定めるのに、わたくしは帝都で何年も悩みましたの。それを、あなたは、たった一言の畑仕事の話で、解いてくださった」
ミーリアには、それがどれほど大きなことなのか、正直、よくわからなかった。ロッテから教わった『苗を見るな、土を見ろ』という言葉を、そのまま伝えただけだ。けれど、その素朴な一言が、帝都の学者たちが何年も答えを出せなかった問いを解いてしまったのだという。
「わたしは、ただ、思ったことを言っただけで」
「その『思ったこと』が、本物だったのですわ」
リーナの声に、ミーリアは少しだけ照れて視線を落とした。
* * *
「それで、ですけれど」
リーナが少し改まった様子でミーリアを見た。
「ミーリアさま。新しい制度が動きはじめたら、あなたに、正式な役目をお願いしたいのですわ」
「役目、ですか」
「ええ。『聖女制度、監修者』。本物の聖女とは何かを、この目で示し続ける人。……いいえ、帝都に来ていただく必要は、ありませんの」
リーナは、きっぱりと言った。
「あなたは、この辺境にいてくださって、いい。ここで、今まで通り、薬草を育て、大地を癒し、精霊たちと暮らす。その姿こそが、制度の、生きたお手本になりますもの」
ミーリアは、目を見開いた。
帝都に縛られなくていい。この谷を、離れなくていい。のんびりと暮らしながら、それでも、誰かの役に立てる。そんな道が、あるなんて。
「……いいん、ですか。わたし、ここにいて」
「もちろんですわ。むしろ、あなたが辺境にいてこそ、意味がありますの」
「帝都に囲われた聖女ではなく、民の中で生きる聖女。土に触れ、人と暮らし、精霊と語らう聖女。……それこそが、わたくしたちの目指す、本物のかたちですわ。あなたが辺境で穏やかに暮らすこと、そのものが、制度への何よりの証になりますの」
リーナの言葉には、静かな確信が満ちていた。その真剣な眼差しを受けて、ミーリアは胸がいっぱいになった。
* * *
ミーリアは、窓の外に目をやった。
湯煙の立ち上る谷。薬草園の緑。畑を手伝う村人たち。源泉のほとりで戯れる精霊たち。追放されて流れ着いた、この小さな辺境。ここが、いつの間にか、かけがえのない場所になっていた。
帝都にいた頃は、いつも、誰かの決めた物差しで測られていた。B級だ、役立たずだ、と。けれど、この谷は、違った。ありのままの自分を、必要としてくれた。
その辺境にいながら、遠い帝都の大きな仕組みをより良いものに変えていく。それは、かつての自分には想像もできなかった生き方だった。
のんびり暮らしたい。ただ、それだけが願いだった。それでも、この谷で暮らすうちに守りたいものが増え、少しずつ強くなってきた。そして今、その暮らしのままで、もっと大きな何かに手を届かせようとしている。
「わたし、やってみます」
ミーリアは、顔を上げた。
「難しいことは、きっと、たくさんわからないままだと思います。でも、この谷で暮らしていくこと。それを、ちゃんと、誰かのために役立てられるなら。……やりたいです」
「ええ。それでこそ、ですわ」
リーナが、満足そうに微笑んだ。
* * *
その夜、集会所では、ささやかな宴が開かれた。
リーナの帰任を、村のみなで送るための、送別の宴だった。マルタが腕によりをかけた料理を並べ、ハンス村長が下手な歌を披露して、ロッテに呆れられている。湯治客たちも交じって、谷は、久しぶりの賑わいに包まれた。
温泉で温まった湯治客が、辺境の地酒を酌み交わす。子どもたちが、精霊を追いかけて、集会所の中を駆け回る。フェリクスはいつものように壁際で杯を傾けながら、その賑わいを目を細めて眺めていた。ミーリアと目が合うと、口元がほんの少し緩んだ。それだけで、伝わるものがあった。
リーナは、その輪の中で、屈託なく笑っていた。帝都では決して見せなかったであろう、素の笑顔で。辺境の粗末な椅子に腰かけ、村人たちと杯を交わす令嬢の姿は、すっかりこの谷に馴染んでいた。
ミーリアは、その光景を眺めた。明日には、リーナは帝都へ発つ。少しだけ、胸が寂しくなる。けれど、それ以上に、温かかった。裁く側と、裁かれる側。かつて交わるはずもなかった二人が、今は、同じ夢を見る友になっている。
リーナと出会えたことは、この谷がミーリアにくれた宝物の一つだった。彼女がいなければ、自分の力が『調律』なのだと知ることも、制度という大きな夢に触れることも、なかっただろう。明日からは、また離れて暮らす。けれど、二人を繋ぐものは、もう消えたりしない。
窓の外では、月が谷を照らしていた。薬草園の一角で、カイトの種が、いつものように脈打っている。その穏やかな鼓動は、来たるべき朝を、ただ静かに待っていた。




