小さな報い大きな一歩
ドナート男爵が帝都へ送られてから、十日ほどが過ぎた。
辺境には、いつもの日々が戻っていた。萎れていた薬草は青々と葉を広げ、濁っていた源泉も再び澄んだ乳白色の湯をこんこんと湧かせていた。星脈の流れも、すっかり元通りだ。
あの騒動が、まるで嘘のようだった。魔導具に大地の力を吸われ、村人たちが不安に飲まれていた日々。それが今は遠い出来事のように思える。
ミーリアは毎朝、薬草園を歩いては蘇った緑を確かめ、胸を撫で下ろしながらそう思っていた。守れたのだ。この谷を、この暮らしを。
そんなある日、オットーの荷馬車が、谷に帰ってきた。
「ミーリアさま、リーナさま。帝都で、でかい話を仕入れてきたぜ」
荷を下ろしながら、行商人は、いつものように声をひそめた。集まった村人たちが、耳をそばだてる。
「例のエーデルシュタインの男爵な。爵位も、地方の利権も、ぜんぶ取り上げられたそうだ。魔導具で辺境を襲ったってのが、よほど重い罪だったらしい」
村人たちが、どっとどよめいた。あれほど傲慢に谷を見下し力ずくで踏みにじろうとした男が、すべてを失ったという。溜飲が下がるという顔をする者もいれば、どこか複雑な面持ちの者もいた。
ミーリアは、その報せを胸に受け止めた。
* * *
——同じ頃、帝都イグナシオン。宮廷の審問の間。
ドナート男爵は、磨き上げられた大理石の床に膝をついていた。頬に映り込むほど冷たいその床は、つい先日まで彼が傲然と見下ろしていたはずの場所だった。
「ドナート・エーデルシュタイン。魔導具をもって辺境の星脈を害し、民を欺いた罪により、爵位ならびに一切の所領を剥奪する」
審問官の声は虫けらを検分するように平坦で、その抑揚のなさがかえって腹の底を抉った。
「お、お待ちを……! これには、深い事情が……! あんな、銅貨いくらの薬草しか採れぬ寒村の連中が、大げさに騒ぎ立てているだけで……!」
傍聴席を振り返る。だが、エーデルシュタイン公爵家の紋章を纏った縁者たちは誰ひとり彼と目を合わせなかった。汚れた物から離れるように視線を逸らすだけだ。笠に着ていたはずの本家の権威は、もう、どこにもなかった。
あの、湯煙にけぶる辺境の谷。名も知らぬ野花しか咲かぬしみったれた寒村。あんな場所の民に、この自分が——。喉から漏れかけた叫びは言葉にならなかった。行き場を失った拳が冷たい床の上でただみっともなく震えていた。
* * *
「本家からも、切り捨てられたそうですわ」
リーナが、帝都から届いた書状を片手に言った。
「エーデルシュタイン公爵家は、傍系のドナートを『一族の恥』として、あっさりと縁を切りましたの。……あれほど威を借りていた本家に、最後は尻尾切りにされる。皮肉なものですわね」
威張り散らしていた者が、いざとなれば真っ先に見捨てられる。ドナートが笠に着ていた本家の権威は、彼を守るためのものではもとからなかったのだ。魔導の名門エーデルシュタイン家にとって、傍系の不祥事など切り捨てれば済むだけの些細な傷にすぎなかった。
「そんな……」
ミーリアは、なんとも言えない気持ちになった。胸がすくというにはあまりに寂しい末路だったが、あの男が辺境にしてきたことを思えば、当然の報いに違いない。
「同情は、いりませんわ」
リーナが、ミーリアの心を読んだように言った。
「あの男は、いくつもの地方で、同じことをしてきましたの。偽の聖女を使い、民から供物を搾り取り、逆らう者は力で潰す。……辺境が声を上げなければ、彼の被害者は、これからも増え続けていたはずですわ」
* * *
「それに」
リーナが、書状を畳んで、微笑んだ。
「この一件は、辺境だけの話では、終わりませんの」
「どういうことですか」
「ドナートの手口が明るみに出たことで、帝都では今、偽聖女制度への疑いが、一気に広がっておりますのよ。彼のような監督役が、他にもいるのではないか、と。……わたくしの進めている制度改革に、これ以上ない追い風になりましたの」
リーナの瞳が、輝いていた。
「机の上で、いくら『制度が腐っている』と訴えても、なかなか人は動きませんわ。けれど、辺境で実際に起きた、この生きた事例。偽りの聖女制度が、どれほど民を苦しめるか。それを、誰の目にも明らかにしてくれましたの」
リーナはこの数日、帝都と辺境の間で幾通もの書状をやり取りしていた。辺境で起きた一件をいかに制度改革へ繋げるか。証拠をどう扱い、どの筋へ働きかけるか。
谷で薬草を学んでいた令嬢は、いつの間にか帝都を相手取る改革者の顔に戻っていた。その瞳の奥には、この辺境で得た確かな手応えが宿っている。
ミーリアは、目を丸くした。この小さな谷で起きた出来事が、遠い帝都の大きな仕組みを動かそうとしている——そんなこと、考えてもみなかった。
薬草を育て、大地を癒し、精霊とお喋りをする。自分にできるのはそのくらいだとずっと思ってきた。けれどその小さな営みの積み重ねが、こうして誰かの未来を変えていく。
リーナが以前、制度の一頁目に記した言葉をミーリアは思い出した。土を耕すように、人を活かす。それが、聖女のかたちなのだと。
「小さな……報い、ですけど」
ミーリアが、ぽつりと言った。
「本物の聖女制度への、大きな一歩に、なったんですね」
「ええ。あなたと、この谷の人たちが、踏み出してくれた一歩ですわ」
* * *
その日の夕暮れ、ミーリアは、調合小屋にクラリッサを訪ねた。
クラリッサはいつものように薬草を仕分けていたが、その横顔は以前よりもどこか晴れやかに見えた。
「クラリッサさん。あなたの証言が、大きな力になりました」
ミーリアが言うと、クラリッサは仕分けの手を止めて、ゆっくりと首を振った。
「わたくしは、ただ、本当のことを話しただけですわ。……それでも」
彼女は、窓の外の夕焼けに、目を細めた。
「かつて、偽りの聖女だったわたくしが。その過去を悔いる言葉が、誰かを救う証言になる。……そんな日が来るなんて、あの頃は、思ってもみませんでしたの」
クラリッサの声は低く落ち着いていた。長く背負ってきた罪の重みが、ほんの少しだけ軽くなったような響きだった。
この谷に流れ着いたばかりの頃、クラリッサは誰の目も見られなかった。薬草に触れることさえ嫌がり、爪が汚れると泣いていた。
それが今では村で一番の働き手であり、偽りの制度を正すための大切な証言者になっている。彼女が積み重ねてきた地道な日々。その一つ一つが今日という日に実を結んでいた。
ミーリアは、微笑んだ。裁かれる側にいた者が今、誰かを守る側に立っている。人は変われる。リーナの言葉が、また胸に温かく響いた。
* * *
小屋を出ると、谷は、茜色に染まっていた。
湯煙が金色に輝き、精霊たちが薬草園の上をのんびりと舞っている。畑仕事を終えた村人たちが笑い声を交わしながら家路につく。ドナートの影に脅かされていたことが、まるで嘘のような夕暮れだった。
ミーリアは、薬草園の一角に立ち寄った。カイトの種を植えた畝。あの騒動の間も、種はひそかに脈打ち続けていた。テラがその傍らで、土色の光をほのかに灯している。
この谷を、守れた。大切なものを、守り抜けた。ミーリアは畝に手を当てた。土が、温かい。まるでよくやったと褒めてくれているようだった。
思えば、追放されてこの谷に来たときは何もかもが不安だった。自分の力が偽物だと信じ込み、居場所もなくただうつむいていた。それが今は守りたいものがあり、共に守ってくれる人たちがいる。
大切な種を育て、大地の声を聴きながら、この場所で生きている。ミーリアは、蘇った薬草園をゆっくりと見渡した。
夕風が吹いた。薬草の香りが鼻先をかすめ、茜色の空へ溶けていく。帝都のある方角、雲の切れ間から、最初の星がひとつ灯った。




