第12話 薬草師の朝
空がまだ暗い。
グリュンハイムの谷間は朝靄に沈み、温泉の湯煙だけが白く立ち上っている。東の山の稜線が、ほんの少し紫がかり始めた。夜明けまであと半刻。
薬草園の柵の前に、ひとつの影が立っていた。
フェリクスは手に木の水桶を提げ、もう片方の手に布に包んだものを持っている。山の見回りに出る前の、朝一番の立ち寄り。
もう五日続いている。
柵の向こうで、ミーリアがしゃがんでいた。薬草の葉についた朝露を指で確かめ、小さな帳面に何かを書き込んでいる。朝の冷気の中、吐く息が白い。
「おはようございます、フェリクスさん」
ミーリアが顔を上げて笑った。土で汚れた頬が朝靄に滲んでいる。
「……水。持ってきた」
フェリクスが水桶を柵の上に置いた。桶の中で水面が揺れ、朝の薄明を映した。
「ありがとうございます。いつも重いのに、すみません」
「重くない」
「あと、これ——」
布の包みを渡す。
「朝食。食え」
「え、これもフェリクスさんが?」
「マルタに頼まれた」
嘘だった。マルタには何も頼まれていない。黒パンと山羊のチーズと干し果実。朝暗いうちに自分で包んだ。チーズは昨日の市で一番柔らかいのを選んだが、そんなことは言わない。
ミーリアが包みを開いて、ぱっと顔が明るくなった。
「わあ、干し果実まで。いただきます」
黒パンをちぎって口に運ぶ。チーズを挟んで、もぐもぐと咀嚼する。頬が動くたびに、泥の跡が伸びたり縮んだりした。
「おいしいです。このチーズ、いつもと違いますね。柔らかくて」
「……そうか」
「フェリクスさんも一緒に食べませんか? こんなにたくさん——」
「食った。山に行く」
嘘だった。まだ食べていない。
「……泥」
「え?」
「頬。泥がついてる」
「あっ」
ミーリアが慌てて袖で拭う。余計に広がった。左頬から鼻筋まで茶色い線が走っている。
「……逆だ。こっち」
フェリクスが手を伸ばしかけて、止めた。自分の手が土と汗で汚れている。結局、背を向けた。
「山に行く」
「あ、行ってらっしゃい。気をつけて——」
返事を聞かずに歩き出した。耳の先が熱い。足が速くなる。薬草園の柵を離れて、小道を曲がったところで立ち止まった。
息を吐く。白い呼気が朝靄に溶けていった。
* * *
温泉宿の二階の窓から、マルタがその一部始終を見ていた。
「ロッテ、ロッテ」
「なんだい、朝っぱらから」
ロッテが階段を上がってくると、マルタが窓を指さした。フェリクスの背中が山道に消えていくところだった。
「あれ、見た? また来てたわよ」
「知ってるよ。毎朝だ。5日目だろう」
「完全に通い詰めよね」
「山守が毎朝薬草園に来るなんて前代未聞だよ。あの男、フェリクスだよ? 村の女の子が話しかけても『用件』の一言で終わらせるフェリクスが」
マルタが口元を押さえて笑う。
「水と朝食を持って、毎朝通ってくるのよ。それでミーリアちゃんは気づいてないの。天然にも程がある」
「ミーリアは帝都育ちだからね。ああいう不器用な好意には慣れてないんだろうさ」
「好意って認めちゃうのね」
「見りゃわかるだろう。あの朴念仁が自分でチーズを選んでる姿、想像できるかい?」
マルタが盛大に吹き出した。
「できない。絶対できない」
「それをやってるんだから、もう末期だよ」
ロッテが腕を組んで窓の外を見る。薬草園では、ミーリアが朝食の残りを片づけながら鼻歌を歌っていた。頬の泥にまだ気づいていない。
「あの子、ここに来た頃と顔つきが変わったね」
「そうね。目に力が戻ってきた」
「帝都にいた頃の話は聞かないけど、相当しんどかったんだろう。泣きながら来たって、ハンス村長が言ってた」
「今は笑ってる。それでいいのよ」
二人は顔を見合わせて、にやりと笑った。
* * *
昼過ぎ。薬草園の作業を終えたミーリアは、園の奥の空き地で星脈共鳴の練習をしていた。
地面に両手を当てる。意識を沈めて、大地の振動に耳を傾ける。星脈が低く歌っている。その声に手のひらを重ねるように、意識を合わせていく。
指先が温かくなる。白銀の光が、ほんの少しだけ灯った。
枯れた草が一本、ゆっくりと茎を起こした。葉が開く。
「……よし」
小さな範囲。でも昨日より制御できている。頭痛もまだ軽い。力を入れすぎず、引きすぎず。蛇口をゆっくり開くような感覚を掴みかけている。
〈上手。上手になった〉
テラが地面の隙間から顔を出して、のんびりと光った。土色の小さな精霊が、地面に頬をくっつけるようにしてミーリアを見上げている。
「ありがとう、テラさん。でも、まだまだです」
〈焦らない。ゆっくり〉
「はい。ゆっくり」
練習を切り上げて立ち上がると、腰に鈍い痛みが走った。ずっとしゃがんでいたせいだ。伸びをして空を見上げる。青い空に、薄い雲がひとすじ。
薬草園の隅に、何かが置いてあった。
山百合の花。三本。水を張った空き瓶に挿してある。白い花弁が午後の日差しを受けて、象牙色に光っていた。
「……あれ」
ミーリアは首を傾げた。朝はなかった。昼食の間に誰かが置いたのだろうか。花弁に朝露がまだ残っている。ということは、朝のうちに摘まれたものだ。
「ロッテさん、この花、どなたが?」
作業小屋から出てきたロッテが、花を一瞥して鼻を鳴らした。
「さあね。知らないよ」
知っている顔だった。ミーリアは気づかなかったが。
山百合の花弁が、午後の陽射しを受けて柔らかく揺れていた。
夕方、フェリクスが山から戻ってきた。外套に草の匂いがしみついている。薬草園の前で足を止め、花が飾ってあるのを確認して、何も言わずに通り過ぎた。
通り過ぎる時、口元がほんの少しだけ動いた。笑ったのか、ただ唇を噛んだのか、誰にもわからなかった。
フィルがミーリアの肩で翡翠色に明滅した。
〈朝。暗いうち。摘んだ〉
「え? 何が、朝暗いうちに?」
〈花〉
「花を? 誰が?」
フィルは答えず、フェリクスが去った方角をちらりと見て、すぐにミーリアの髪の中に潜り込んだ。温かい羽ばたきが耳元をくすぐる。
ミーリアは山百合の花をもう一度見つめた。朝露がまだ残っている。夜明け前に摘まなければ、こうはならない。
水桶と、朝食と、花。
毎朝暗いうちに起きて、水を汲んで、花を摘んで、朝食を包んで。それからここに来て、無愛想に「水」「朝食」とだけ言って去っていく人。
胸の奥がじんわりと温かくなった。
星脈共鳴の温もりとは、少し違う。もっとくすぐったくて、もっと落ち着かない温もりだった。
「フェリクスさん……」
夕暮れの薬草園で、ミーリアは山百合の花をそっと胸に寄せた。花弁が頬に触れて、冷たかった。




