令嬢と聖女の共同戦線
東の祠へは、獣道を半刻ほど登った。
先頭を行くのはフェリクスだ。時おり足を止めては地面の跡を確かめ、風の匂いを嗅ぐ。この山を知り尽くした山守の足取りに迷いはなく、その背中をミーリアとリーナ、クラリッサが追っていく。
「この先だ。足元に気をつけろ」
フェリクスが崩れかけた石段を指し示した。ミーリアが苔で足を滑らせかけると、すぐに手が伸びてきて腕を支えてくれる。
「……ありがとうございます」
「ここから先は、俺が前に出る」
フェリクスは短く言って、ミーリアの一歩前に立った。広い背中が視界を覆う。石段を一段踏むたび爪先で苔を削り、崩れないのを確かめてから手を後ろへ回す。ミーリアはその手を掴んで登った。
* * *
古い祠は、苔むした岩の陰にひっそりと建っていた——はずだった。けれど今、祠の前の地面には見慣れないものが据えられている。
黒い金属の箱のような装置だった。表面には複雑な紋様が刻まれ、その中心で赤黒い石が脈打つように明滅している。とくん、とくん——まるで大地の鼓動を無理やり奪い取っているかのように。
「これが……」
ミーリアは息を呑んだ。装置の周りの土は黒く変色し草の一本も生えていない——星脈の流れがここで断たれ、吸い上げられているのは視るまでもなかった。
これのせいで湯が濁った。精霊たちもあれほど怯えていた。胸の底で怒りが固まる。ただの道具が、この谷の命を平然と吸い上げている。
「エーデルシュタインの紋章ですわ」
リーナが、装置に刻まれた紋様を睨んだ。
「間違いありませんの。これが、谷を蝕んでいた元凶。大地の力を吸い上げる、魔導具ですわ」
* * *
ミーリアが装置に近づこうとした、その時だった。
茂みが、がさりと揺れた。
「そこまでだ」
現れたのは、剣を佩いた男が二人。あの使者の一団にいた護衛たちで、魔導具を守るためだけにここへ残されていたのだろう。
「せっかく閣下が仕掛けた道具だ。壊させるわけには、いかんな」
男たちが、剣を抜いた。クラリッサが、思わず身をすくめる。けれど——
「下がってろ」
フェリクスが、一歩、前に出た。
その手にはいつの間にか山刀が握られていた。山で熊とも渡り合う男の構えは、それだけで護衛たちをわずかにたじろがせた。
「この山を、舐めるな」
フェリクスの声は低かった。山刀の刃を横に倒し、落ち葉の上を半歩、斜めに滑る。護衛たちの剣先が、同じだけ後ろへ引いた。
「た、大した自信だな。田舎の木こり風情が」
護衛の一人が虚勢を張るように吐き捨てた。だが足はじりじりと後ろへ下がっている。フェリクスは答えず、山刀の切っ先をわずかに下げてみせた。いつでも動ける、獣のような間合いだった。
「相手は、俺一人で十分だ。ミーリア、リーナ様。装置を頼む」
* * *
「ミーリアさま、今のうちに!」
リーナが叫んだ。フェリクスが護衛を抑えている間に魔導具を止める。それしかなかった。
ミーリアは装置の前に膝をつき、目を閉じて意識を沈める。金色の瞳に白銀の光が灯った。
けれど——装置に触れた瞬間、掌に焼けるような痛みが走った。
「っ……!」
「無理に力を流してはなりませんわ!」
リーナが鋭く制し、目を閉じて装置の奏でる音に耳を澄ませている。
「聴こえますわ……この魔導具の、旋律。硬く、規則正しい音の中に……ひとつだけ、綻びがありますの」
リーナの指が、装置の一点を指した。赤黒い石のすぐ下。紋様がわずかに歪んでいる箇所だった。
「そこですわ。力の流れの、要。そこへ、あなたの星脈を、一気に流し込むのです。正面からではなく、その綻びから、内側へ」
「わかりました」
ミーリアは、示された一点に指を当てた。
* * *
白銀の光が、ミーリアの指先から装置の内側へと流れ込んでいく。
正面からではなく、リーナの示した綻びから。ミーリアは指の腹を紋様の歪みに押し当て、爪の先ほどの隙間へ光を細く送り込む。大地の力が装置の内側を逆流していく。
装置が耳障りな音を立てて震えた。赤黒い石の明滅が乱れる。とくん、とくん、という規則正しい鼓動が、少しずつ狂っていく。
「もう少しですわ! そのまま!」
リーナの声にミーリアは頷き、奥歯を噛んで力を送り続けた。額に汗が滲む。
「装置が、暴れていますわ。あなたの力を、押し返そうとしていますの。……でも、大丈夫。あなたの旋律のほうが、ずっと澄んで、ずっと強い」
指揮者のように、リーナの声がミーリアを導いていく。ミーリアはその声だけを頼りに光の流れを細く鋭く絞り込み、綻びの奥へと押し込んでいった。装置は奪った大地の力を手放すまいと抗ったが、内側から満ちていく星脈の光には敵わなかった。
やがて——赤黒い石がひときわ強く光り、ぱきりと音を立てて砕け散った。
装置の明滅が、止まった。
周囲を覆っていた冷たく硬い気配がすうっと消え、断たれていた星脈の流れが堰を切ったように谷全体へと巡りはじめた。
* * *
護衛たちは、魔導具が壊れたのを見ると忌々しげに舌打ちして山を下りていった。フェリクスがその背を油断なく見送り、完全に見えなくなるまで動かなかった。
ミーリアは、装置の残骸の前にへたり込んでいた。
「大丈夫か」
フェリクスがすぐに駆け寄って、膝をつく。
「はい……なんとか。星脈が、戻っていくのが、わかります」
足元の黒く変色していた土に、じんわりと色が戻りはじめていた。どこからかフィルとテラとアクアが飛んできて、嬉しそうに三人の周りを舞い、テラが耳元をかすめていく。
弱々しく明滅していたテラの光も、いつもの土色を取り戻している。谷が深く息を吹き返していくのが、皮膚のひとつひとつから伝わってくるようだった。
「見事な連携でしたわね」
リーナが汗を拭いながら、微笑んだ。
「次は綻びの位置を先に言いますわ。あなたは指を離さず、下から上へ。……ふふ、案外、良い相棒になれそうですわ」
ミーリアも、思わず笑った。フェリクスが差し出してくれた手を取って立ち上がる。大きくて温かい手だった。
追放されて独りぼっちだった自分に最初に手を差し伸べてくれたのも、この人だった。ミーリアは握られた手を握り返す。リーナがそれを見て意味ありげに微笑んだのには、気づかないふりをした。
リーナは砕けた装置の破片を拾い上げた。エーデルシュタインの紋章が刻まれた、動かぬ証拠だった。
「これで、ドナート男爵の尻尾を、掴みましたわ。……あとは、この証拠を突きつけて、逃げ場を塞ぐだけですの」
東の祠に、風が通り抜けた。よみがえった星脈の光が谷底へ広がっていく。ミーリアは祠の前で膝を折り、苔むした石に手を触れた。冷たく、湿っていた。




