妨害の魔導具
異変は、朝の水やりのときに始まった。
ミーリアが薬草園に出ると、昨日まで青々としていた薬草の一角が、力なくうなだれていた。葉先が茶色く縮れ、茎が張りを失っている。一晩で、こんなふうに萎れるはずがなかった。
「どうして……」
しゃがんで、土に触れる。冷たかった。いつもは朝でも、ほのかに温かい辺境の土が、生気を失ったように、ひやりとしている。
テラが、畝の傍らで落ち着かなげに光っていた。いつもの穏やかな土色の光ではない。明滅が、弱々しく、途切れがちだった。
〈土が。苦しい。痛い〉
「テラさん……」
ミーリアの胸が、ざわりと騒いだ。
昨日の夕方まで、この一角も他の畝と変わらず生き生きとしていた。ミーリアが星脈で蘇らせた辺境の薬草は、帝都のどんな薬園より青々と育つ。それが村のささやかな誇りでもあった。その薬草が、一夜にして命を吸われたように萎れている。ミーリアは、萎れた葉を一枚、そっと指先で撫でた。
* * *
異変は、薬草園だけではなかった。
村の共同浴場のほうから、マルタが血相を変えて駆けてきた。
「ミーリアさま! 湯が、湯が濁っちまって……! 源泉のひとつが、急に止まったんです」
源泉のほとりへ行くと、いつも澄んだ乳白色だった湯が、どんよりと灰色に濁っていた。湯量も、目に見えて減っている。アクアが水面の上で、青い光を弱々しく揺らしていた。
ミーリアは湯に指を浸した。ぬるい。引き上げた指先を親指でこすると、細かな灰色の粒がざらりと残った。
「昨日の晩までは、いつも通りだったんです」
マルタが桶を抱えたまま、湯口を指さした。
「夜番の者が、明け方に音が変わったと言っておりました。湯の落ちる音が、細くなったと」
湯口からこぼれる湯は、石樋の縁をようやく伝う程度まで細っていた。ミーリアは、薬草園で触れた土の冷たさを思い出した。
集まってきた村人たちの顔に、不安が広がっていった。
「聖女さまが来てから、辺境はずっと豊かだった。それが、どうして急に……」
「まさか、聖女さまの力が、弱ってきたんじゃ……」
誰かが漏らしたその一言に、ミーリアの心臓が、きゅっと縮んだ。
* * *
ミーリアは、源泉のほとりに膝をついた。
目を閉じ、意識を大地の奥へと沈めていく。金色の瞳に、白銀の光が灯った。星脈共鳴。谷の底を巡る、大地の血脈を視る力。
いつもは、緩やかに、豊かに流れている星脈。それが今は、ひどく乱れていた。
どこかで、流れが堰き止められている。細い水路に石を詰め込まれたように、大地の力が、一点で不自然に滞っていた。そして、その滞りから、冷たく硬いものが、じわじわと谷全体へ広がっている。まるで、澄んだ水に、一滴ずつ墨が溶け出していくように。
「これは……自然の乱れじゃない」
ミーリアは、確信した。星脈が、こんなふうに、一点から規則正しく毒されることなど、ありえない。誰かが、意図して、大地の流れをせき止めているのだ。
その滞りの中心は、谷の東のほうにあった。星脈の流れをたどると、そこだけが黒く塗りつぶされたように視えない。大地に打ち込まれた、冷たい楔のようだった。触れようと意識を伸ばすと、指先にぞわりと厭な感触が返ってくる。生き物の気配ではない。硬く規則正しく脈打つ、無機質な何か。ミーリアは、思わず身を震わせた。
「ミーリアさま」
いつの間にか、リーナが隣に立っていた。
* * *
リーナの顔は、青ざめていた。
「聴こえますわ。あの夜と、同じ音。硬くて、冷たくて、規則正しい……人の手で作られたものの音」
彼女は胸を押さえ、眉根を寄せた。
「精霊が騒いだ、あの夜。種が怯えていた、あの音。……あれが、とうとう、この谷の中で鳴りはじめていますの」
「リーナさま。これは、いったい」
「魔導具ですわ」
リーナが、はっきりと言った。
「大地の力を吸い、乱すための魔導具。おそらく、あの使者が去ったあと、谷のどこかに仕掛けていったのですわ。……エーデルシュタインは、魔導研究の名門。その傍系のドナートなら、この程度の細工は、造作もないことでしょう」
ミーリアは、息を呑んだ。あの傲慢な男が残した、捨て台詞。この平和な里に、何が起きても、知らんぞ。あれは、ただの脅しではなかったのだ。
* * *
その時、人垣の後ろから、クラリッサが進み出た。
「……わたくしにも、心当たりがありますわ」
薬草で汚れた手を、きつく握りしめている。
「エーデルシュタインの屋敷に、聖光の器と呼ばれる魔導具がありました」
「聖光の、器」
「わたくしが奇跡を演じる日の朝、決まって庭の芝が茶色く枯れましたの」
クラリッサは、握った手に目を落とした。
「使用人が、井戸の水が減ったと騒いでおりました。わたくしは、気にも留めませんでしたわ」
ミーリアは、萎れた薬草を思い出した。濁った源泉を。冷たくなった土を。
「あれと、同じものが」
「同じ理屈のものなら、この谷のどこかに埋まっておりますわ」
クラリッサは言い終えてから息を継いだ。爪が、手のひらに食い込んでいた。
「厄介ですわね」
リーナが、谷を見渡した。
「湯治客は、明日には湯屋の話を持って帰りますわ。三日で麓の町、七日で州都」
マルタが、桶の縁を握りしめた。
「お客が、来なくなりますか」
「それも困りますけれど」
リーナは、人垣の後ろへ目を向けた。さきほど聖女の力が弱ったと漏らした男が、視線を落として一歩下がる。
「……こちらのほうが、早く回りますわ」
ミーリアは、そっと唇を噛んだ。
* * *
けれど、と、ミーリアは顔を上げた。
「なら、その魔導具を見つけて、止めればいいんですね」
その声に、もう迷いはなかった。萎れる薬草も、濁る源泉も、怯える精霊も。どれも、放ってはおけない。この谷は、自分が守ると決めた場所だった。
「フェリクスさん。谷の中で、最近、誰かが立ち入った場所はありませんか。使者の一団が通った道の、近くで」
「……心当たりがある」
フェリクスが、山の一角を見上げた。
「三日前、獣道に、見慣れねえ足跡があった。谷の東の、古い祠のあたりだ。あのへんは、星脈の流れが、地表に一番近い場所でな」
ミーリアは、さきほど視た滞りの位置を思い返し、フェリクスの見上げた稜線と重ねた。同じ方角だった。
「そこですわね」
リーナの瞳が、鋭く光った。
ミーリアは、東の山の稜線を見つめた。萎れた薬草を、そっと手のひらで包み込む。待っててね、と心の中で語りかけた。すぐに、元通りにするから。
斜面をつたう風が、濁った湯の匂いを運んでくる。テラが東へ二度、三度と転がって、途中で止まった。それきり動かない。ミーリアが呼ぶと、ことりと足元へ戻ってきて、土色の光が、細く途切れた。




