甘い汁の構造
使者の馬車が見えなくなっても、広場の空気は重いままだった。
いつもなら、朝湯を終えた湯治客の笑い声や、畑を耕す鍬の音で賑わっているはずの時刻だった。それが今日は、誰もが押し黙り、遠ざかっていった馬車のほうを、まだ気にしている。
使者の残した捨て台詞が、澄んだ谷の空気に、べったりとした染みのように残っていた。
ハンス村長が村人をなだめて解散させたあと、ミーリアたちは集会所に集まった。リーナ、フェリクス、ロッテ。そして少し離れた壁際に、クラリッサが立っていた。
張り詰めた沈黙のなか、最初に口を開いたのは、リーナだった。彼女は、いつもの令嬢然とした余裕をいくらか引っ込め、帳面を机の上に広げた。帝都で幾度もこの手の相手と渡り合ってきた者の、落ち着いた手つきだった。
「あの男爵は、脅すだけで済ませる相手ではありませんわ」
リーナが、帳面を広げながら言った。
「ドナート・エーデルシュタイン。傍系の男爵ですけれど、侮れません。偽りの聖女制度で、地方の浄化利権を一手に握っていた男ですわ」
「浄化利権……?」
ミーリアが首をかしげた。リーナが頷く。
「偽の聖女を地方に配置し、"土地を浄化する"という名目で、村々から税や供物を集めますの」
リーナが、帳面の頁をめくった。
「けれど、その聖女は偽物。浄化などできませんわ。民の不安につけこんで、金品を巻き上げていただけ」
「そんな……」
リーナは、書きつけた一行を、指の先で押さえた。
「一昨年、この谷の三つの村が納めた供物。麦が四十二袋、銀貨が十八枚」
「……はい」
「帝都の記録に届いたのは、麦が十袋と、銀貨が四枚ですわ」
ミーリアは、指を折って数えかけて、途中で手を止めた。
「消えた分は、監督役の帳簿に『輸送の欠損』と書かれておりますの。ドナートの署名で」
むずかしい政の話は、正直、半分も分からない。それでも、麦の袋の数だけは、はっきりと胸に落ちた。四十二から十。運ぶ途中で減った三十二袋を、誰かが食べている。
追放された自分が身をもって知った、あの帝都の冷たさと、同じ匂いがした。
* * *
その時、壁際のクラリッサが、静かに口を開いた。
「……その通りですわ」
全員の視線が、彼女に集まった。クラリッサは、薬草で汚れた手を、そっと握りしめた。
「わたくしは、その仕組みの中にいました。エーデルシュタインの人間として、偽りの聖女として。……ドナート男爵のことも、存じておりますわ」
「クラリッサさん」
「あの方は、家の傍系。魔導院の技術を、ほんの少しだけ扱える人でした。聖光の器の——偽物の聖女を仕立てる魔導具の、調整を任されていた一人ですわ」
誰も口を挟まなかった。クラリッサは、これまで自分の過去を多くは語らず、薬草の修行に打ち込んできた。そのクラリッサが、今、自分から話している。
握りしめた手の甲に、爪の跡が白く残っていた。
リーナの目が、鋭くなった。
「魔導具を扱える。……確かなことかしら」
「ええ。何度か、家の集まりで顔を合わせました。地方の利権を独り占めして、いつも供物の額を自慢していましたわ。……民が飢えていても、意に介さず」
クラリッサの目は、机の木目の一点に据わったままだった。豪奢な広間と、着飾った貴族たち。そのすぐ外では、痩せ細った民が、なけなしの供物を捧げていた。
彼女自身も、かつてはその舞台に立たされた一人だった。
クラリッサの声が、微かに震えた。けれど、彼女は続けた。
「わたくしも、同じ穴の狢でした。今さら、告発する資格などないかもしれません。でも——」
顔を上げた。
「この村で、ミーリアさまや、ロッテさんや、みんなに拾っていただいて。もう、あの頃のわたくしには、戻りたくないのです」
言い終えて、クラリッサは、深く息をついた。肩が、少しだけ下がっている。集会所は、しばらく静かなままだった。
ロッテが、小さく鼻を鳴らして、そっぽを向いた。照れ隠しなのだと、ミーリアは知っている。
* * *
リーナは、しばらくクラリッサを見つめていた。
そして、静かに目を閉じた。鑑譜眼が、クラリッサの声に重なる旋律を、端からなぞっていく。
やがて、リーナが目を開けた。
「胸のあたりから、低い音が。震えておりますけれど、外れてはおりませんの」
リーナは、指先で机を一度だけ叩いた。
「……嘘は、ありませんわ」
その一言に、クラリッサの肩から、力が抜けた。
「あなたの言葉には、濁りがありませんの。悔いも、覚悟も、全て本物。……クラリッサさん。あなたの証言は、改革にとって、何よりの力になりますわ」
「わたくしの、証言が……?」
「ええ。あなたは、偽りの制度がどう回っていたかを、内側から知っている」
リーナが、帳面をもう一冊、机に重ねた。
「日付と、額と、署名。それを書き残せば、ドナートを法で裁けますわ」
クラリッサは、しばらく口を開かなかった。俯いていた顔が、ゆっくりと上がっていった。
「……お引き受け、いたします。日付も、額も、覚えている限り」
この村に流れ着いたばかりの頃、クラリッサは誰とも目を合わせなかった。今は、リーナの顔をまっすぐ見ている。ミーリアは、湯呑みに手を伸ばして、飲まずにそのまま置いた。
* * *
話がまとまると、フェリクスが口を開いた。
「だが、相手は魔導具を扱えるんだろう。脅しで終わるとは思えない」
「わたくしも、それを案じておりますの」
リーナが、窓の外を見た。夕暮れの谷に、湯煙が立ち上っている。
「ドナートは、ただ脅しに来たのではないはず。何か、辺境に直接手を出す算段があると見た方がよろしいですわ。……この土地の、一番大切なものを狙って」
ミーリアの胸が、ざわついた。一番大切なもの。この辺境を支えているもの。それは、星脈。大地を巡る、命の流れだった。
あの硬く冷たい音の正体が、この星脈を狙うものだとしたら。精霊たちが怯えたのも、種が不規則に脈打ったのも、すべてはその予兆だったのかもしれない。ミーリアの背筋を、冷たいものがすっと走り抜けた。
その時だった。
薬草園の方から、テラが転がってきた。いつになく慌てた様子で、ミーリアの足元で止まる。
〈土。変。変な音〉
「テラさん?」
ミーリアは、外へ出た。夕日に染まる薬草園で、精霊たちが、落ち着かなげに畝の周りを飛び回っていた。カイトの種の光が、ちらちらと、不規則に明滅している。まるで、遠くから忍び寄る何かに、身構えるように。
深い谷の底で、大地が、微かに、それでもまぎれもなく、いつもと違う音を立てはじめていた。




