男爵の使者
種が光りはじめてから、三日が過ぎた。
畝の鼓動は、あの夜を境に少しだけ落ち着いた。今は、また淡い脈動に戻っている。それでも、芽吹きの時が近いことを、精霊たちは感じ取っているようだった。ミーリアは毎朝、水をやりながら、土に語りかけている。
種のことは、まだ村の誰にも詳しくは話していない。リーナと二人、もうしばらく見守ろうと決めていた。けれど、あの精霊たちが騒いだ夜の気配は、まだミーリアの胸の底に、小さな棘のように残っている。
その日も、いつもと変わらぬ朝のはずだった。
山道の下から、聞き慣れない音が響いてきた。
馬の蹄と、車輪の軋み。だが、行商人のオットーの荷馬車とは違う。もっと重く、威圧的な音だった。
村人たちが、手を止めて顔を上げる。畑を手伝っていたリーナの従者たちも、怪訝そうに山道のほうを窺った。穏やかな谷の朝に、その音は、明らかに場違いだった。
「ミーリアさま」
フェリクスが、薬草園の柵の向こうを見ていた。琥珀色の目が、細くなっている。
「客だ。……歓迎できる類じゃなさそうだ」
* * *
広場に現れたのは、帝都風の一団だった。
黒塗りの馬車から、痩せた男が降りてくる。仕立てのいい上着に、宝石のついた指輪をいくつもはめている。辺境の土を踏むのも汚らわしいとばかりに、足元を気にしながら歩いてきた。
男は井戸端で足を止め、護衛のひとりに靴の泥を拭かせた。湯屋から上がってきた村人が、湯桶を抱えたまま、道の端に寄って立ち止まった。
その背後には、剣を佩いた護衛が数人。村人たちが、遠巻きにざわめいた。
「ここの責任者は、どこかね」
男が、値踏みするように広場を見渡した。ハンス村長が、進み出る。
「わたしが、村長のハンスですが。どちらさまで」
「私は、ドナート・エーデルシュタイン男爵閣下の使者だ」
男は、名乗りながら胸を反らした。
「閣下は、由緒あるエーデルシュタイン公爵家の血を引くお方。この辺境に、いささか目に余る動きがあると聞いてな。忠告に参った」
ミーリアは、村長の隣に立った。エーデルシュタイン。どこかで聞いた名だ。……クラリッサの、家門の名だった。
* * *
「目に余る動き、とは」
ハンス村長が、静かに問い返した。使者の男は、鼻で笑った。
「とぼけるな。聖女制度の改革とやらに、この辺境が首を突っ込んでいるだろう。追放されたはずの偽聖女が、大それた口出しをしていると」
「口出し、とは異なことを。ミーリアさまは、この谷を救ってくださった、本物の聖女さまだ」
ハンス村長は、杖の先を土に突き立てて言った。使者が半歩詰めても、そこから足の位置を変えない。
「本物の聖女、だと?」
使者が、さもおかしそうに肩を揺らした。
その言葉に、村人たちの空気が、ぴりりと張り詰めた。
「ミーリアさまは、偽聖女なんかじゃねえ!」
村の若者が、思わず声を上げた。使者が、蔑むように一瞥する。
「辺境の田舎者が。去年の納税名簿を見せてもらったぞ。湯屋がひとつ、薬草の束が幾束か。その帳面で、帝都の政に口を挟むつもりか」
ハンス村長が、使者の手元に目をやった。
「束の数なら、こちらでもお答えできますぞ。冬にその薬草で命をつないだ者が何人か、そちらの帳面に書いてありますかな」
ミーリアは、拳を握った。自分が何を言われても構わない。けれど、村のことを、みんなのことを見下されるのは、我慢ができなかった。
「あの——」
ミーリアが口を開きかけた、その時だった。
「身の程を知らないのは、どちらかしら」
凛とした声が、広場に響いた。
* * *
人垣を分けて、リーナが進み出た。
旅装ではなかった。きちんとした令嬢の装いに着替え、背筋を伸ばしている。その姿を見た使者の顔色が、さっと変わった。
「あなたは……クレスタフェルデ家の」
「リーナ・クレスタフェルデ。帝都で、聖女制度改革を任されている者ですわ」
リーナが、優雅に、けれど有無を言わせぬ響きで名乗った。
「ドナート・エーデルシュタイン男爵。名前は存じておりますわ。かつて、偽りの聖女制度で地方の浄化利権を握り、供物と称して民から搾取していた……その一人ですわね」
使者の額に、汗が滲んだ。
「な、なぜ、それを」
「わたくしの仕事ですもの。改革とは、そういう膿を出すこと。あなた方が、それを快く思わないのは存じておりますわ」
リーナが、手袋の指先を揃えた。
「……けれど、辺境を脅して黙らせようというのは、いささか浅はかではなくて?」
リーナの淡い紫の瞳が、冷たく使者を射抜いた。使者は言葉を失い、後ずさった。
村人たちの間から、どよめきが起きた。後ろにいた者が、前を見ようと肩を押し合う。
さっき声を上げた若者が、鍬の柄を握り直し、石段の一段上に足をかけた。湯桶を抱えていた村人が、それを地面に下ろした。
* * *
その時、ミーリアは気づいた。
調合小屋の陰に、クラリッサが立っていた。薬草の束を抱えたまま、青ざめた顔で使者の一団を見つめている。
エーデルシュタインの名を、彼女は誰よりもよく知っている。かつて、その家の力を借りて偽りの聖女の座に就いたのだから。
クラリッサの手が、薬草の束をきつく握りしめた。けれど、彼女は逃げなかった。その場に留まり、じっと使者を見据えていた。
ミーリアは、そっとクラリッサに歩み寄った。何も言わず、抱えられた薬草の束の下に、手を添える。潰れかけた葉が、指の間でぱきりと鳴った。
「……そっち、持ちますね」
クラリッサが束を抱え直した。強張った肩が、ほんの少しだけ下がる。
使者は、リーナに気圧されながらも、最後に捨て台詞を残した。
「……閣下は、寛大なお方だ。今なら、まだ間に合う。辺境の分際で、これ以上、帝都の政に関わらぬことだ。さもなくば——」
男は、村全体を睨め回した。
「この平和な里に、何が起きても、知らんぞ」
そう言い残すと、一団は馬車に乗り込み、山道を下っていった。重い車輪の音が、遠ざかっていく。
広場に、重い沈黙が残された。
「……行きましたわね」
その沈黙を、リーナが破った。
「リーナさま。ありがとうございました。わたし、うまく言い返せなくて」
「よろしいのですわ。ああいう手合いには、こちらも令嬢の顔で応じるのが、一番効きますの」
リーナは、ほんの少しだけ、いたずらっぽく微笑んでみせた。けれど、その目は、まだ油断なく、山道の彼方を見ていた。
馬車が消えたあと、広場の石畳に、紙が一枚落ちていた。護衛のひとりが取り落としていったものらしい。ミーリアは拾い上げた。
折り目に、エーデルシュタインの紋章の封蝋がついている。開くと、この谷の湯屋と薬草畑が、一つずつ書き並べられていた。
畝の数。湯の湧く口の位置。薬草を干す小屋までが、細かい字で記されている。日付は、先月の末だった。
ミーリアは紙を畳んで、上着の内側に入れた。オットーが街道で見たという紋章付きの馬車の話が、指先に残った紙の厚みと一緒に戻ってくる。
リーナが横から覗き込み、短く息を吐いた。
「……ずいぶん、丁寧に数えてくださっていますこと」
クラリッサが薬草の束を抱え直し、山道の下りへ目をやる。谷の底からは、湯の湧く音が、朝と変わらずに聞こえていた。




