精霊が騒ぐ夜
その夜は、月が細かった。
夕餉のあと、ミーリアが薬草園の見回りに出ると、谷はいつもより深い闇に沈んでいた。温泉の湯煙だけが、わずかな星明かりを受けて、白くたなびいている。虫の音も、風の音も、今夜はどこか遠い。
異変に気づいたのは、カイトの種を植えた一角に近づいたときだった。
テラが、畝の周りを、せわしなく転がっていた。
〈来る。来る。来る〉
「テラさん、どうしたの」
いつも穏やかなテラが、これほど落ち着きをなくすのは珍しい。ミーリアがしゃがむと、フィルが風を巻いて飛んできた。翡翠色の光が、いつもより速く、鋭く明滅している。
少し遅れて、水場のほうからアクアも駆けつけた。青い光が、不安げに揺れている。
テラが畝の南側で止まり、フィルとアクアが、その両脇に下りた。三体とも、谷の入り口のほうを向いたまま、動かない。
「みんな、落ち着いて。何があったの」
声をかけても、フィルは羽ばたきを止めない。テラは、ミーリアの足元に身を寄せ、震えるように光を明滅させた。
〈怖い。硬いの。来る〉
「硬いの……?」
ミーリアは、精霊たちの怯えの意味を、まだ測りかねていた。
* * *
畝の土が、脈打っていた。
カイトの種の光が、闇の中で白銀に輝いている。けれど今夜は、いつもの規則正しい鼓動ではなかった。強く明滅したかと思えば、ふいに弱まり、また不規則に大きく輝く。
光の届く輪が、さっきより一回り小さくなっていた。
ミーリアは、そっと土に手を当てた。星脈共鳴を使うまでもなく、掌に伝わる熱が、はっきりと乱れているのがわかる。
「これは……」
思わず、目を閉じて意識を沈めた。金色の瞳の奥に、白銀の光が灯る。
星脈の流れが見えた。谷の底を巡る、大地の血脈。いつもは緩やかに脈打つその流れが、今夜は細かく波立っている。
遠くから、何か硬く冷たいものが、流れをかき乱しながら近づいてくる。波紋が、こちらへ広がってくるのだ。
「ミーリア」
いつの間にか、フェリクスが隣に立っていた。気配もなく現れるのは、いつものことだった。
「フェリクスさん。何か、感じますか」
「ああ。山が、ざわついてる」
フェリクスは短く答え、暗い稜線へ目をやった。
* * *
「山の獣が、下りてきてる」
フェリクスが、暗い山の稜線を見上げて言った。
「鹿も、兎も、夜のうちに谷のほうへ移ってる。何かに追われるみたいにな。……こんなのは、山が荒れる前触れのとき以来だ」
「山が、荒れる……?」
「わからん。だが、獣は嘘をつかない。何かが、この谷に近づいてきてる」
「近づいてる、って……どこから」
「谷の、入り口のほうからだ」
フェリクスが、街道のある方角を、顎で示した。闇のなかに、まだ何も見えない。けれど、彼の勘は、いつだって獣よりも正確だった。
「みんなを、起こしたほうがいいのかな」
「いや。まだ、正体がわからん。騒げば、向こうを警戒させる。……もう少し、様子を見る」
その時、集会所のほうから、灯りを手にしたリーナが小走りにやってきた。夜着の上に外套を羽織り、息を少し切らしている。
「精霊たちが騒いでいると、従者が知らせに……」
言いかけて、リーナは足を止めた。畝の白銀の光を見た瞬間、その顔から、みるみる血の気が引いていく。
「……聴こえますわ。ひどい、不協和音。この谷の旋律が、軋んでいますの」
リーナは胸を押さえ、耳を澄ますように目を閉じた。淡い紫の瞳が、細かく震えている。
* * *
「種が、鳴いていますわ」
リーナの声が、掠れていた。
「怯えて、助けを求めるように。そして、その向こうから……硬い音が、拍を刻んで近づいてきますの」
リーナは胸を押さえたまま、空いた手の指で、自分の腕を四つ叩いた。間隔は、どれも同じだった。
「この拍が、少しも乱れませんの。獣の足音でしたら、こうはなりませんわ」
「足音、ということですか」
「揃いすぎておりますわ。数も、ずっと同じですの」
ミーリアは、土に当てた掌の熱を思い出した。星脈をかき乱す、あの硬く冷たいもの。それが拍を刻みながら、この谷へ向かってきている。
「リーナさま。この音の正体、わかりますの」
「いいえ、まだ。……ですが、自然のものでないことだけは、確かですわ。これほど大地を厭う音を、わたくしは、これまで一度も聴いたことがありませんの」
リーナが、ゆっくりと目を開けた。その瞳には、令嬢らしからぬ硬い光が宿っている。
「ミーリアさま。今夜のことは、決して気のせいではありませんわ。備えを、しておくべきですの」
「備え……」
「ええ。子どもたちを、集会所の奥へ。井戸の蓋も、閉めておいてくださいまし」
「戸締まりは、引き受ける」
フェリクスが、稜線から目を離さずに言った。
三体の精霊が、いっそう強く光った。テラが畝の土にことりと寄り、フィルとアクアが、その上を旋回する。輪はだんだん低くなり、やがて薬草の葉先に触れるほどになった。
「大丈夫。あなたは、わたしが守るから」
ミーリアは、畝にそっと手をかざした。おびえる種を包み込むように、掌から淡い光を送る。テラが、応えるように、ミーリアの手のすぐそばで、小さく光った。
そして——種の光が、一際強く、閃いた。
夜の薬草園が、真昼のように白く照らし出される。ミーリアは思わず目を細めた。次の瞬間、その光が、ふっと消えた。
あとに残ったのは、墨を流したような闇と、底知れない静寂だけだった。
* * *
誰も、しばらく動けなかった。
精霊たちも光を潜め、じっと息をひそめている。谷は、不気味なほど静まり返っていた。あれほど乱れていた大地の鼓動が、今は、何かを待つように、ぴたりと黙り込んでいる。
「……種が、鳴きやみましたわ。向こうの拍だけが、残っておりますの」
リーナが、灯りを畝の脇へ置いた。炎はまっすぐ立って、揺れもしない。
「フェリクスさん、獣たちは」
「谷に降りて、身をひそめてる。もう、山へは戻らないだろうな」
「集会所の灯り、消してもらえますか」
「もう消させた」
フェリクスの声も、低かった。あれほど騒いでいた精霊たちが、今は畝のそばで、じっと身を寄せ合っている。何かを耐えるように。
ミーリアは立ち上がり、谷の入り口のほうへ目を向けた。闇に沈んだ街道の、そのずっと先。
小さな灯りが、いくつか、揺れていた。
松明の炎だった。一つ、二つ、三つ。それが列をなして、ゆっくりと、この谷へ向かって近づいてくる。夜更けに、供を連れて辺境を訪れる者など、そうそういるはずもない。
「……来ましたわね」
リーナが、静かに言った。その声に、もう震えはなかった。ただ、覚悟だけがあった。
「あの灯りの正体が、今夜、種を怯えさせたものと無縁だとは、わたくしには、とても思えませんの」
「わたし、迎えに出ます。この谷の聖女として」
「一人では行かせん」
フェリクスが、即座に言った。
フェリクスが、ミーリアの前へそっと一歩進み出た。尾根をつたう夜風が、薬草の葉をざわりと鳴らす。
灯りは、七つに増えていた。街道の土を打つ蹄の音が、風の切れ間に届く。四拍。間隔は、少しも乱れなかった。




