行商人がもたらす噂
オットーの荷馬車が谷に着いたのは、よく晴れた昼下がりだった。
馬の手綱を杭に結ぶと、オットーは荷台の帆布をめくり、温泉宿の前に木箱を次々と下ろしていった。四つ目で腰を伸ばし、首にかけた手拭いで顎の汗を拭う。
「マルタさん、頼まれてた塩と針、それに帝都の反物だ。今回は上物が入ったよ」
「あらオットー、待ってたよ。相変わらず、口より先に荷が来るね」
温泉宿の女将マルタが、腰に手を当てて笑った。木箱の蓋が開くたび、湯治客や村人が一人、また一人と輪に加わる。マルタは反物の端を指でこすり、陽に透かして目を細めた。
ミーリアも、ロッテに頼まれた調合用の空き瓶を受け取りに、宿の前へ出ていた。並べられた反物や香辛料を、村の女たちがかわるがわる手に取っている。
* * *
「そういや、聞いたかい」
荷を配り終えたオットーが、出された茶をすすりながら、声をひそめた。集まった村人たちが、自然と耳をそばだてる。
「帝都じゃ今、聖女さまの話で持ちきりでね。なんでも、偽物の聖女制度ってやつを、本物に作り直すって話が動いてるらしい」
ミーリアとマルタが、思わず顔を見合わせた。それは、まさに今この谷で、リーナと進めていることだった。
偶然の一致にしては、話があまりに近い。ミーリアは空き瓶を抱えたまま、思わずオットーの次の言葉を待った。
「けどな、いい話ばかりじゃねえ。それを面白く思わない連中もいる、って噂だ」
「面白く思わない、って?」
マルタが尋ねると、オットーは声をさらに低くした。
「帝都の酒場でな、傍系の男爵の使いだって男が管を巻いてたんだ。『地方の聖女の上がりで屋敷を建てたんだぞ』ってな」
オットーが、茶碗を膝に下ろした。
「そいつが酔いのまわった声で、こう言いやがった。『辺境の田舎聖女風情が、余計な口を出すな』ってよ」
ミーリアの胸が、ちくりとした。田舎聖女、というのは、たぶん自分のことだ。けれど、不思議と腹は立たなかった。田舎の聖女で、上等だと思う。
受け取った空き瓶を、ミーリアは一本ずつ布袋に移した。詰め物の藁が指の間に落ちる。ロッテに言われた数は六本で、五本目まで数えたところで、手が止まった。
* * *
その話を、集会所から出てきたリーナが、戸口でじっと聞いていた。
「……もう、そこまで伝わっていますのね」
彼女が、静かに歩み寄った。オットーが、見慣れぬ身なりの令嬢に目を丸くする。
「おや、帝都の御方かい。こいつは失礼を」
「いいえ。とても有益なお話でしたわ。行商の方は、どんな早馬よりも早く噂を運びますもの」
リーナが、木箱の縁に手をかけた。
「オットーさん、と仰いましたわね。その、反対している貴族について、もう少し伺えますこと?」
「詳しくは知らねえがね」
オットーが、赤ら顔を指でかいた。
「エーデルシュタインとかいう家の、傍系の男爵だとよ。魔導だの何だので、地方の聖女を取り仕切ってた家柄らしい」
その名を聞いた瞬間、リーナの表情が、わずかに引き締まった。胸の前で組んだ指の、関節が白くなっている。
「本家の名を出して、通行の税をまけさせた宿を三軒知ってる。おれの得意先だ」
オットーが、立てた指を三本折ってみせた。リーナはその三軒を尋ねなかった。村人の輪から半歩下がり、街道のほうへ目を向けている。
「その男爵の使いは、帝都のどの酒場に出入りしていますの」
「西門の、樽屋の隣だ。おれが荷を積み替える宿の、真向かいでね」
* * *
「そうそう、忘れるとこだった」
馬に荷を積み直しながら、オットーが思い出したように振り返った。
「ここへ来る途中の街道でな、やけに立派な馬車とすれ違ったよ。こんな辺境にゃ珍しい、ぴかぴかの紋章付きだ」
オットーが、荷紐を引き締める手を止めた。
「供回りを六人。腰のものを、荷の上からじゃなく体に提げてやがった。あんたら、心当たりでもあるのかい」
「いいえ。……でも、ご忠告、痛み入りますわ」
リーナが、やわらかく微笑んで応じた。オットーは満足げに頷くと、帽子を持ち上げ、荷を軽くした馬車で谷の出口へと去っていった。車輪の音が、だんだん小さくなっていく。
車輪の音が消えても、ミーリアは街道の先を見ていた。抱えた布袋のなかで、空き瓶が二度、かちりと鳴った。
「塩が上がってるね」
マルタが、オットーの置いていった書付を陽に透かしていた。
「先月の一割増しだよ。あの人が勝手に値をつり上げる人じゃないのは、あたしがよく知ってる」
「……帝都で、何かあるんでしょうか」
「さあね。荷の値ってのは、人より先に動くもんさ」
マルタは書付を折りたたみ、前掛けの隠しに押し込んだ。
* * *
「反対派が動くことは、覚悟しておりましたわ」
オットーの姿が見えなくなると、リーナは集会所に戻り、草案の帳面を閉じた。
「けれど、想像より、ずっと早いですの。制度の草案は、まだ帝都に上げてもおりませんのに。……向こうは、はじめから、この辺境に的を絞ってきていますわ」
「わたしたちを、狙ってるってことですか」
「おそらく。ここで改革の芽を摘めば、制度そのものを潰せる。そう考える者がいても、おかしくありませんもの。……そして、オットーさんの言っていた、あの馬車」
リーナは、窓辺に立って谷の出口を見下ろした。夕暮れにはまだ早い、澄んだ空が広がっている。
「紋章付きの馬車が、供を連れて、この時期に辺境へ。偶然だと思うほど、わたくしは楽観的ではありませんの」
リーナは帳面を開き直し、白紙の頁に線を一本引いた。左の端に日付を、右の端に家名を書き入れる。エーデルシュタイン、と綴った文字だけ、筆の跡が紙の裏まで残っていた。
ミーリアも窓へ寄った。湯煙の向こうで、従者たちが畑の畝を直している。鍬の音と笑い声が、途切れ途切れに届いた。
薬草園のほうで、テラがひとつ、明るくなっては翳るのをくり返していた。




