クラリッサと令嬢
制度の草案づくりも、大詰めを迎えていた。
リーナが辺境に来て、もう十日が過ぎている。従者たちはすっかり湯治客に馴染み、朝には温泉に浸かり、昼には村人と畑仕事を手伝うまでになっていた。硬かった帝都の一行が、少しずつ辺境の色に染まっていく。
リーナ自身も、辺境の暮らしを一通り見終え、いよいよ薬草の扱いを学びたいと言い出した。聖女の力は、大地と草木への理解から生まれる。それを知らずに制度は作れない、と。
ミーリアは彼女を、ロッテの調合小屋へ案内した。
小屋の中では、乾燥薬草の束が天井から吊るされ、独特の青い香りが満ちていた。棚には調合薬の瓶が整然と並んでいる。その奥で、一人の女性が薬草を仕分けていた。
「クラリッサさん、お客さまを——」
ミーリアが言いかけて、止まった。
クラリッサが顔を上げ、リーナを見た瞬間、その手から薬草の束が滑り落ちた。
* * *
「……クレスタフェルデ家の」
クラリッサが、一歩下がった。背が棚に当たって、瓶が小さく鳴った。
リーナも、その顔を見て動きを止めていた。淡い紫の瞳が、記憶を手繰るように細められる。
「あなた……帝都の。偽聖女制度の、記録にあった」
小屋の空気が、張り詰めた。
乾いた薬草の香りだけが、二人の間を漂っている。クラリッサは土で汚れた前掛けをつけ、ほつれた髪を布で束ねていた。対するリーナは、旅装とはいえ背筋の伸びた令嬢そのものだった。
ミーリアは二人を交互に見た。クラリッサの指が、前掛けの裾を握り込んで皺にしている。リーナは戸口の框に手をかけたまま、小屋の中へ一歩も踏み込んでいなかった。
クラリッサが、落とした薬草を拾おうともせず、俯いた。
「……お見苦しいところを。わたくしは、もう聖女ではありません。ただの薬草見習いですわ」
「存じておりますわ」
リーナの声は、静かだった。冷たくも、優しくもない。ただ、事実を確かめるような響きだった。
「あなたのことは、記録で読みました。偽りの聖女として担ぎ上げられ、民を欺いた。……その一人が、なぜこんな辺境に」
「償いきれるとは、思っておりません」
クラリッサが、震える手で薬草を拾い集めた。
「ただ、逃げずに生きようと。それだけですわ」
* * *
重い沈黙が落ちた。
ミーリアは、どう言葉を挟めばいいのかわからなかった。二人の間には、辺境の者にはわからない、帝都の因縁が横たわっている。
けれど、とミーリアは思う。帝都の因縁がどれほど重くとも、この谷では朝が来れば湯が湧き、薬草が伸びる。クラリッサはその中で、少しずつ帝都の棘を落としてきた。その変化を誰よりも近くで見てきたからこそ、リーナの前で肩をすぼめる今の彼女が、いつもより小さく見えた。
その時、棚の奥で薬草の匂いを確かめていたリーナが、ふと手を止めた。
「この仕分け……あなたが?」
「はい。ロッテさんに教わりました」
「ずいぶん、丁寧ですわね。効能ごとに、乾き具合まで分けてある。生半可な覚え方では、こうはできませんわ」
クラリッサが、驚いたように顔を上げた。
「毎日、朝から晩まで、ロッテさんに叱られながら……ようやく、少しだけ」
クラリッサは、束ねた薬草を効能ごとに分け、乾き具合を指先で確かめてから棚へ収めていった。
この辺境に来たばかりの頃、彼女は薬草に触れることさえ嫌がり、爪が汚れると言っては泣いていた。それが今では、村で一番の働き手だ。
棚の隅には、自分で書き足した覚え書きの紙が、端を糊で押さえて貼ってある。何度も貼り直したらしく、その紙だけ角が丸くなっていた。
リーナは、棚に並んだ調合薬の瓶を一つ手に取った。ラベルには、几帳面な字で効能と分量が記されている。かつて聖女の椅子に座っていた女性が、今は泥にまみれ、薬草の匂いに包まれて働いている。
リーナの瞳が、わずかに揺れた。
「このラベルの写し、いただけますかしら。帳面に挟んで、帝都まで持って帰りますわ」
リーナは瓶を棚に戻し、指先でラベルの端をまっすぐに直した。
* * *
小屋を出た後、リーナはしばらく無言だった。
夕暮れの谷を、二人でゆっくりと歩く。湯煙が金色に染まり、精霊たちが薬草園の上を舞っていた。フィルが二人の周りを一周して、また薬草園へ戻っていく。夕餉の支度をする竈の煙が、あちこちの家から立ち上っていた。
「わたくし、制度を作ることばかり考えておりました」
リーナが、ぽつりと言った。
「偽物を暴き、罰し、二度と生まれないようにする。それが正義だと。……でも、暴かれた者たちは、その後どうなるのかしら。あのクラリッサという人のように、やり直そうとする者もいる」
「クラリッサさんは、最初はすごく刺々しかったんです」
ミーリアは、少し笑った。
「わたしのことも、ずっと見下していて。でも、ロッテおばさんに預けられて、薬草を覚えて……少しずつ、変わっていきました。今では、村の人たちにも頼りにされているんですよ」
「偽聖女の名簿は、もう作りましたの。……その後の行き先を書く欄が、ありませんわ」
リーナが立ち止まり、暮れゆく空を見上げた。
「帰ったら、欄をひとつ増やしますわ。……ミーリアさま。あなたのこの村は、わたくしに、いくつも宿題をくださいますこと」
リーナは腰の帳面を取り出し、残った西の光にかざして、そこへ短く書きつけた。
* * *
その夜。
クラリッサは、いつもより遅くまで調合小屋に残っていた。
ミーリアが薬湯を届けに立ち寄ると、彼女は薬草を仕分ける手を止めずに、小さく呟いた。
「あの方に……見られてしまいましたわ。一番、惨めだった頃を知る人に」
「クラリッサさん」
「でも、不思議と……嫌ではありませんでしたの」
クラリッサの横顔を、ランプの灯りが照らしていた。その表情は、以前のように張り詰めてはいなかった。
「昔のわたくしを知る人に、今のわたくしを見てもらえた。それだけで、少しだけ……前に進めた気がしますわ」
窓の外で、風が薬草の束を揺らした。乾いた葉が、さらさらと鳴る。昼の喧騒が退いた小屋は、しんと静まり返っていた。
ミーリアは薬湯をそっと置いた。湯気が、ランプの灯りの中をまっすぐ立ちのぼる。
「明日、あの方がまた摘みに来られるそうですの」
クラリッサは仕分けの手を止めずに言い、空いた左手だけを湯呑みへ伸ばした。棚の隅の覚え書きに、新しい紙が一枚増えている。ミーリアは棚の脇に腰を下ろした。薬草を束ね直す紐の音が、しばらく続いていた。




