薬草園の新しい一角
翌朝は、薄曇りだった。
谷を満たす湯煙が、いつもより低く垂れこめている。ミーリアは朝の水やりを済ませると、リーナを薬草園の一角へ案内した。
カイトの種を植えた小さな畝だった。育て方も日当たりの好みもわからない種を、他の薬草とは分けて木の柵で囲ってある。踏み荒らされないよう作った、特別な場所だった。
テラが、いつものように畝の傍らで静かに光っていた。この一角が、テラのお気に入りの場所になって久しい。
「ここです。カイトさんが送ってくれた種を植えて、もう半月になります」
「カイトさん……あの、封印の間の?」
リーナの表情が、少しだけ和らいだ。あの夜、共に星脈の暴走を鎮めた、無愛想な少年。今も迷宮都市で、変わらず冒険者を続けていると聞いている。
「まあ。あの方が、あなたに贈り物だなんて。ずいぶん、らしくありませんこと」
「わたしも驚いたんです。でも、お手紙もちゃんと添えてあって」
ミーリアは畝を見下ろした。
「ダンジョンの深いところで見つけた種だそうです。どんな花が咲くのか、効能があるのかも、カイトさんにもわからないって」
「あの方が、わざわざ辺境まで……」
リーナが畝の前に膝をついた。淡い紫の瞳に、旧友を思う柔らかさと、種への好奇心とが入り混じっていた。
* * *
リーナが、そっと土に指を触れた。
目を閉じ、鑑譜眼で旋律を聴き取ろうとしている。しばらく、彼女は動かなかった。朝の薬草園に、精霊たちの気配だけが漂っている。
彼女の指先が、微かに震えた。眉根が寄り、呼吸が浅くなる。何か大きな音の中に立たされているかのように、リーナは身をこわばらせていた。
やがて、リーナが目を開けた。その顔から、いつもの余裕が消えている。
「……おかしいですわ」
「おかしい?」
「この種の旋律。帝国のものではありませんの」
リーナが立ち上がり、指先を見つめた。
「わたくしは帝都で育ち、大陸中の記録を読んできました。土地にも、石にも、生き物にも、それぞれ固有の旋律がある。地方ごとの訛りのようなもの。……でも、この種の音は、どの地方の記録にもありませんでしたわ」
「カイトさんが、ダンジョンの深いところで見つけたと言っていました」
「深い場所……」
リーナが畝を見下ろした。
「ええ、確かに。地の底から響くような、重く、古い音。まるで、大地そのものよりも、さらに深いところで眠っていた何か」
彼女の声に、微かな緊張が滲んでいた。
* * *
昼下がり、ロッテが薬草園にやってきた。
「ミーリア、妙な噂を聞いたよ。あんたの畑で、夜な夜な光る畝があるってね」
「あ……見られてましたか」
「隠すことじゃないだろう。村の連中はもう、ちょっとした騒ぎさ」
ロッテは柵の中の畝を覗き込み、しゃがんで土の匂いを嗅いだ。長年、辺境で薬草を扱ってきた者の手つきだった。
「妙な種だね。芽も出てないのに、土がこんなに元気だ。普通、こうはならないよ」
「ロッテおばさんでも、わからないですか」
「あたしの知ってる草木じゃないね。だがね」
ロッテが立ち上がり、腰を叩いた。
「悪い気配はしない。土ってのは正直でね。毒のあるものを植えりゃ、周りが痩せる。この畝は逆だ。年々よくなるあんたの畑の中でも、ここが一番生き生きしてる」
「そう、なんですね」
「焦らず育てな。答えは、土が出してくれるさ」
ロッテはそう言って、いつものように調合小屋へ戻っていった。その背中を見送りながら、ミーリアは畝に目を落とした。土が正直なら、この種は、きっと悪いものではない。それでも、ロッテにさえ正体のわからない種というのは、初めてのことだった。
* * *
その夜。
夕餉を終えて、ミーリアは薬草園の一角に戻った。リーナと、フェリクスも一緒だった。
月のない夜だった。谷は闇に沈み、温泉の湯煙だけが白くたなびいている。
畝の土が、淡く光っていた。
白銀の微光が、土の表面をゆっくりと脈打っている。とくん、とくん、と。心臓の鼓動のように、規則正しく明滅していた。
数日前までは目を凝らさねばわからぬほど淡かった光が、今は離れていても、はっきりと畝を照らし、周りの薬草の葉先を銀色に縁取っている。
〈動いてる。ずっと。動いてる〉
テラが畝の傍らで、落ち着かなげに回転している。フィルとアクアも、いつになく静かに、種の光を見つめていた。
「昼間より、強く光っていますわ」
リーナが囁いた。
「夜になると、はっきり聴こえますの。この鼓動が。まるで、目を覚まそうとしているような」
ミーリアは畝の前にしゃがみ、土にそっと手を当てた。星脈共鳴は使わない。ただ、触れるだけ。
温かかった。以前よりも、ずっと。土の奥で脈打つ何かが、確かに大きくなっている。
「フェリクスさん、どう思いますか」
「……悪いものじゃない」
フェリクスが、光を見つめたまま言った。
「山の獣も、精霊も、怯えてない。むしろ、集まってくる。危険なものなら、精霊が真っ先に逃げる」
「フェリクスさんは、こういうこと、よくわかるんですね」
「山で暮らせば、嫌でも覚える。獣の動きが、一番正直だ」
言われてみれば、フィルもテラもアクアも、種から離れようとしない。それどころか、そっと見守るように、畝の周りに寄り添っていた。危険なものなら、こうはならないだろう。
* * *
リーナは、しばらく光を見つめていた。
やがて、静かに口を開いた。
「ミーリアさま。その、カイトという方に、手紙を書いてみてはいかがかしら」
「カイトさんに?」
「ええ。この種が何なのか、ご本人が一番ご存じのはず。どこで、どうやって見つけたのか。……わたくしの鑑譜眼でも、正体まではわかりませんの。これほど手強い旋律は、初めてですわ」
いつも自信に満ちたリーナが、そう言って肩を落とした。鑑譜眼で聴き取れないものがあるという事実が、彼女には応えているようだった。
ミーリアは頷いた。あの日、封印の核に全ての力を注ぎ込んだカイトなら、何か知っているかもしれない。この種は、ただの贈り物ではないのかもしれない。遠い迷宮の底から、わざわざ自分に送ってきたのだから。
夜風が、谷を渡っていく。どこか遠く、迷宮都市のある方角へと。明日にでもカイトへ手紙を書こう。ミーリアはそう決めた。
淡く光る種の上で、フィルが小さく羽ばたいた。翡翠色の光が、白銀の鼓動に寄り添うように瞬いていた。




