大地が歌うその理由
「あなたの力を、この目で見せていただけませんこと?」
朝の薬草園だった。リーナは制度の帳面を小脇に抱え、真剣な眼差しでミーリアを見ていた。
「大地を蘇らせる力。噂には聞いておりますけれど、実際に見なければ、言葉にできませんもの」
「わたしの力、ですか」
ミーリアは少し考えて、薬草園の北の隅に目をやった。日当たりの悪いその一角だけ、土が痩せて、薬草の育ちが悪かった。
「あそこなら、ちょうどいいかもしれません。ずっと元気がない場所なんです」
* * *
ミーリアは痩せた土の前に膝をついた。膝下の土は乾いて、指で崩すとさらさらと零れ落ちた。
両手を、土の上にかざす。目を閉じ、呼吸を整え、意識を大地の奥へと沈めていく。周りの音が遠ざかり、精霊たちの気配だけが近くなった。
足元が、微かに温かくなった。
土の下を流れる星脈の脈動が、指先に伝わってくる。細く、弱々しく、けれど確かに息づいている流れ。この一角では、その流れが滞っていた。石が水路を塞ぐように、大地の力がうまく巡っていない。
「……見つけました」
ミーリアが目を開けた。
金色だった瞳の奥に、白銀の光が灯る。その光は瞳孔から虹彩へと広がり、やがて瞳全体を、月のような銀色に染めていった。
両手を土に触れさせる。指先から掌へ、そして地面へと、淡い光が伝わっていく。滞っていた星脈の流れに、その光がゆっくりと分け入っていった。石をどかすように、少しずつ、詰まりをほどいていく。
呼びかけに応じて、土の精霊テラが褐色の光となり、地の底へ潜り込んでいく。萎れた根の一本一本に寄り添い、命の流れを送り込む。
源泉から呼ばれたアクアは、乾いた土の隙間へ細い水の糸を通していった。ミーリアの光が道をつけ、精霊たちがその道を命で満たしていく。
地面に、白銀の脈が走った。
枝分かれしながら土の中を広がり、痩せた一角の隅々まで行き渡っていく。乾いていた土が、しっとりと色を変えた。
* * *
変化は、ゆっくりと訪れた。
まず、土の色が変わった。乾いて白茶けていた表面が、奥から湿り気を帯びて深い黒褐色になっていく。
次に、萎れていた薬草がゆっくりと茎を持ち上げた。うなだれていた葉が、日を求めるように広がっていく。葉先の枯れが薄れ、瑞々しい緑が戻っていった。
そして、土の表面を割って、新しい芽が二つ、三つと顔を出した。
テラが畝の上を転がり、嬉しそうに回転している。フィルが芽の上を舞い、翡翠色の光を撒いた。
〈元気。戻った〉
「よかった。これでこの子たちも、のびのび育ちますね」
ミーリアが微笑んだ。額に薄く汗が滲んでいる。封印を直してから、力を使っても以前ほど消耗しなくなった。それでも、大地を動かすのは相応の力がいる。
ふと、隣を見た。
リーナが、動かなくなっていた。
淡い紫の瞳を大きく見開き、その場に立ち尽くしている。片手を口元に当て、もう片方の手はかすかに震えていた。
「リーナさま……?」
「聴こえますわ」
リーナの声が、掠れていた。
「大地が……歌っている。あなたが触れた瞬間から、ずっと。細い旋律が、幾筋も重なって——こんな音、生まれて初めて聴きましたわ」
リーナは胸に手を当てたまま、その場から動けずにいた。鑑譜眼で数えきれないほどの旋律を聴いてきた指先が、震えたままだった。
「帝都の大聖堂の聖歌も、名工の竪琴も聴きましたわ。あれは、奏者が息を吸う間がありますでしょう。これには、ありませんの。途切れずに、続いておりますわ」
その声の末尾が、上ずっていた。
* * *
リーナが痩せたままの畝へ二歩戻り、それからまた蘇った側へ戻ってきた。土に耳を寄せるように、上体を傾ける。
「さっきまで、この土は軋んでおりましたの。糸を張りすぎた弦のような音でしたわ。今は、低い音が三つ、底のほうに並んでおります。その上に、細い音が幾筋も」
「わたしには、何も聞こえません」
「ええ。わたくしの目にしか聴こえませんの。人の嘘も、この目には音の乱れで届きますわ」
リーナがゆっくりと膝を折り、蘇った土に手を伸ばした。指先が、若葉に触れる。
「土も、芽も、精霊も、別々の音を出しておりますのに、喧嘩をしておりませんわ。これが、わからなかった」
「わからなかった、ですか」
「わたくし、ずっと探しておりましたの。"本物の聖女"とは何か。制度の言葉では、どうしても捉えられなかった」
リーナが顔を上げた。指先に、黒い土がついたままだった。
「頁の一行目に『統べる』と書きかけて、消しましたの。あなたは土に、何ひとつ命じておりませんでしたわ。どこが詰まっているのか訊いて、それを退けただけ。……あれは、調律ですのね」
「調律……」
ミーリアは、その言葉を口の中で繰り返した。難しい言葉は苦手だ。舌の上で二度転がしてみると、思ったより短かった。
「ええ。この言葉を、制度の一頁目に記しますわ。あの白紙の頁に」
「わたしなんかの畑仕事が、そんな大事なことに……」
「わたくしの育った屋敷では、庭師の名は名簿の一番下でしたわ。その名簿を作った人間は、一度も土に触れておりません。……順番を、書き直しますの」
リーナが、帳面を胸に抱いた。
ミーリアは、蘇った薬草の一角を見つめた。ただ、目の前の枯れた土を放っておけなかっただけだ。
爪の間に入った土を親指でこすった。乾いて固まっていて、落ちなかった。膝の土を払い、両手を袖でぬぐう。それでも指先には、さっきの温かさが残っていた。
* * *
二人は並んで、朝の薬草園を眺めた。
蘇った一角に、朝日が差している。ついさっきまで痩せて色を失っていた土が、今は他の畝と変わらぬ豊かさを取り戻していた。
精霊たちが芽の周りで戯れ、谷には湯煙が立ち上っている。どこか遠くで、湯治客の下駄の音が響いていた。
その時、リーナの表情がふと曇った。
彼女は薬草園の反対側へ、ゆっくりと顔を向けた。カイトの種を植えた、あの一角のほうへ。
「ミーリアさま。今、大地の旋律の中に……一つだけ、違う音が混じっていますわ」
「違う音?」
リーナは目を細め、その一角をじっと見つめた。眉が寄っている。何かを聴き取ろうと、耳を澄ますように。だが、やがて彼女は小さく首を振り、その先を口にするのをためらった。
「……いえ。今は、まだ。もう少し、聴いてみなければ、なんとも申せませんわ」
リーナは帳面を開かなかった。胸に抱えたまま、指の腹で背表紙を二度叩いた。
ミーリアもそちらを見た。言われてみれば、あの一角だけ、空気が違う気がした。テラが、いつの間にかその畝の傍らで、静かに光っている。
テラは転がらなかった。褐色の光を弱めたり強めたりしながら、畝の一点だけを照らしている。
ミーリアがしゃがんで覗き込むと、土の表面に、指一本ぶんの盛り上がりができていた。昨日は、なかった。




