温泉に入る令嬢
「ええっ。湯に……裸で、浸かるのですか?」
リーナが目を見開いた。いつもの落ち着いた令嬢の表情が、初めて崩れた瞬間だった。
制度改革の草案を練りはじめて、三日目の夕方だった。朝から帳面と睨み合っていたリーナの肩が凝り固まっているのを見て、マルタが「湯に浸かってきな」と半ば強引に温泉へ連れ出したのだ。
ミーリアも薬草を摘む手を止めて、付き添うことになった。
「はい。気持ちいいですよ。旅のお疲れも取れます」
「し、しかし。人前で肌をさらすなど、帝都では——」
「ここには、わたしとマルタさんしかいません。それに、湯煙で何も見えませんから」
それでもリーナは、帯に手をかけたまま逡巡していた。生まれてこのかた、侍女以外の前で肌を見せたことなどないのだろう。帝都の作法が、体の芯まで染み込んでいる。
マルタが手ぬぐいを差し出しながら、豪快に笑った。
「お貴族さまも辺境じゃただの湯治客だよ。さ、ぱーっと脱いじまいな」
リーナは湯気の立ちこめる岩風呂を、しばらく警戒するように見つめていた。それから、意を決したように帯に手をかけた。
* * *
湯に肩まで浸かったリーナは、しばらく身を固くしていた。
源泉の湯は乳白色にわずかに濁り、硫黄の匂いと薬草の青い香りが湯気とともに立ち上っていた。頭上には夜空が開け、湯気の切れ間から星がのぞいている。
じんわりとした熱が、体の芯まで届いていく。冷えた指先に血が巡り、強張った首筋がほどけていくのがわかった。
「……温かい」
ぽつりと、リーナが漏らした。
「肩の凝りが、ほどけていくよう。こんな感覚、久しく忘れておりましたわ」
「帝都では、お風呂に入る暇もないんですか」
「湯を沸かすのに、薪も人手もかかりますもの。しかもわたくし、いつも書類に追われて……気づけば夜が明けている、なんてことも珍しくありませんの」
リーナが湯を手で掬い、指の間から零した。
こわばっていた肩が、少しずつ湯に沈んでいく。結い上げていた髪をほどくと、淡い銀の髪が湯気の中に広がった。リーナは濡れた毛先を指で梳いて、岩の縁に頭を預けた。
「ここは、時間の流れが違いますのね」
「そうかもしれません。ここに来た頃は、わたしも帝都の時間で焦ってばかりでした。でも、精霊たちと暮らすうちに……大地の速さで生きればいいんだって、思えるようになったんです」
アクアが湯面に淡い青の光を浮かべ、ゆっくりと漂っていた。リーナがそれを、目を細めて見つめる。
「あなたは、変わりましたわね」
「え?」
「追放の夜、回廊で見たあなたは、俯いてばかりの娘でしたわ。それが今は、こんなにも……穏やかな顔をしていらっしゃる」
* * *
湯の中で、リーナがふと悪戯っぽく笑った。
「ところで、ミーリアさま。あの山守の殿方——フェリクスさん」
ミーリアの肩が、びくりと跳ねた。
「毎朝、あなたにお茶を淹れていらっしゃるとか。客間の窓枠を直したのも、彼だと聞きましたわ」
「そ、それは……フェリクスさんは、村のことを何でもやってくれる人で」
「三日前、夕餉に呼びに来た時。あなたが制度の話で迷っていた時、彼はたった一言、『どっちでも支える』と言いましたわね」
リーナの淡い紫の瞳が、湯気の向こうで楽しげに揺れた。
「あの目を見ればわかりますわ。あの方は、村のことだけを見ているのではありませんもの」
ミーリアは湯に口元まで沈んだ。頬が、湯のせいだけではなく熱い。
毎朝フェリクスが淹れてくれるハーブティーの湯気。山から戻ると、真っ先に薬草園を覗きにくる。危ないと言うたび、いつも一歩前に立つ背中。数えあげれば確かに、ただの村人にしては近すぎるのかもしれなかった。
「わ、わたしたちは、そういうのじゃ……」
「あら。まだ、そういうのではありませんの?」
リーナがくすくすと笑って、湯を掌で叩いた。小さな飛沫がミーリアの肩に散る。
「隠さなくてもよろしいのに。辺境には、帝都の政略結婚にはない温かさがありますわ。……少し、羨ましいくらい」
その最後の一言だけ、リーナの声が静かになった。ミーリアは湯の中で、そっとリーナの横顔を見た。濡れた前髪が頬に張りついて、目の下の隈を隠しきれていなかった。
* * *
しばらく、二人は言葉もなく湯に浸かっていた。夜の谷に、湯の湧く音だけが響いている。リーナは湯に浮かべた手ぬぐいを、掌でゆっくり沈めてはまた浮かせていた。ミーリアは、こんな夜がずっと続けばいいと思った。
* * *
湯から上がると、マルタが冷たい薬草水を運んできた。
「ほら、湯上がりはこれだよ。ミーリアさま特製の、はちみつ薬草水」
リーナが一口飲んで、目を丸くした。
「まあ。爽やかで、ほんのり甘い……体に沁み渡りますわ」
「気に入っていただけて、よかったです」
二人は縁台に並んで、湯上がりの火照りを冷ました。マルタが手ぬぐいで額を拭きながら、他愛のない村の噂話を聞かせてくれる。リーナはそれに相槌を打ち、時おり声を立てて笑った。
髪はまだほどいたままだった。リーナは杯を両手で抱えたまま、素足を縁台からぶらりと下ろしている。
「ミーリアさま。わたくし、この土地に来てよかったですわ」
「リーナさま」
「草案の第三条を、書き直しますわ」
「第三条?」
「聖女の適性を数値で並べて、上から順に選ぶ。あの条文ですの。……代わりに何を書くか、マルタさんに伺ってまいりますわ。この村の方々が、聖女に何を頼んできたのか」
リーナが微笑んだ。けれどその時、彼女の視線がふと、薬草園のほうへ流れた。
闇の中、あの畝のあたりだけが、淡く光っている。テラの光ではない。もっと深い、土の底から滲むような、白銀の微光だった。
「……やはり、あの種」
リーナが小さく呟いた。その声は、湯の音に紛れて、ミーリアには届かなかった。
ミーリアはただ、心地よい湯上がりの気だるさの中で、杯の底に残った蜜を舐めていた。薬草園の一角が淡く光っていることには、まだ気づいていない。




