聖女制度作り直しませんこと
「聖女制度を、根本から作り直したいのですわ」
集会所の一室だった。窓の外では夕暮れの湯煙が金色に染まっている。
リーナが辺境に着いて、三日が過ぎていた。朝は薬草園を歩き、昼は温泉のほとりで湯治客と言葉を交わし、夕には集会所で村の営みを眺めた。従者たちがようやく湯煙と精霊に慣れてきた頃だった。
湯呑みを両手で包み、まっすぐにミーリアを見つめている。窓から差し込む夕日が、銀の髪を淡く照らしていた。
「作り直す……」
「ええ。今の制度は、腐っておりますの。いえ、最初から腐って生まれたと言うべきかしら」
リーナは湯呑みを置き、帳面の綴じ紐に指をかけた。
「帝都の選定名簿を、十年ぶんめくりましたの。聖女の欄に署名しているのは、鑑定士ではなく後見の貴族でしたわ」
「……署名が」
「ええ。鑑定書の三枚目、素質の等級を書く欄。あそこだけ筆跡の違う年が、七年ありました」
リーナは帳面の間から紙を一枚抜き、卓に伏せて置いた。角が丸く擦れている。何度も持ち歩いた紙だった。
ミーリアは湯呑みに視線を落とした。
追放された夜のことを、まだ覚えている。冷たい大理石の広間。居並ぶ貴族たちの、値踏みするような視線。B級聖女と鑑定され、荷物のように辺境へ送られた。
「わたしは、偽物だと言われました」
「ええ。あなたの鑑定書も取り寄せましたわ。三枚目だけ、日付が二日ずれておりましたの」
「……二日」
ミーリアの指が、湯呑みの縁で止まった。二日、と口の中で繰り返す。
「そう。それこそが、今の制度の罪ですの」
リーナが身を乗り出した。
* * *
「わたくしは帝都で、制度改革の担当を任されました。偽りの聖女を暴き、仕組みを正す役目ですわ。……けれど、暴くだけでは足りませんの」
「足りない、というと」
「名簿を焼いても、翌年また同じ用紙が刷られますわ。書式が変わらないのですもの」
「書式……」
「等級の欄を誰が埋めるか。そこを条文で縛らなければ、来年も同じ七年が続きます」
リーナは指を組み、しばらく言葉を選ぶように黙った。
「わたくしには、"本物の聖女"がどんなものか、わからないのですわ」
「リーナさまでも……?」
「ええ。わたくしは鑑譜眼で嘘を聴くことはできます。けれど、本物を作ることはできない。だって——」
リーナが顔を上げた。淡い紫の瞳が、ミーリアを捉える。
「本物を、この目で見たことがなかったのですもの。今日、この土地に来るまでは」
ミーリアは息を呑んだ。何と返せばいいのか、言葉が見つからない。湯呑みの熱だけが、手のひらに残っていた。
「三日、あなたの後ろを歩きましたわ。薬草園の畝を四本、湯の樋を二か所」
「……見ておられたんですか」
「ええ。どれも、ご自分の手で直しておられました。誰にも命じずに」
「わたしは、困っているところを直しただけで」
「わたくしが要るのは、その手順ですの。畝を四本と決めた理由。樋をどちらから直したか」
* * *
リーナが差し出したのは、一冊の分厚い帳面だった。表紙の紐が二重に巻かれ、結び目が固く締まっている。リーナは自分の手でそれを解いた。
ミーリアは膝の上でそれを開いた。細かな文字が、几帳面にびっしりと書き込まれている。聖女の選定基準、地方への配置、監督の仕組み。紙の端が擦り切れ、消した跡の上に何度も字が重ねてあった。
けれど、冒頭の一頁だけが白いままだった。「聖女とは何か」と表題だけが記され、その下に十七行、罫線が空いている。
ミーリアは頁の端を指でなぞった。裏の文字が透けるほど薄い紙が、指の下でわずかに撓む。
「ここは、何度書き直されたんですか」
「十一度ですわ。全部、破り捨てました」
ミーリアは頁を戻し、綴じ目に目を近づけた。破り取った跡が、根元に細く残っている。数えると、十一。
「監修を、お願いしたいのですわ。追放された当事者であり、本物の聖女であるあなたに」
ミーリアは帳面を受け取ったものの、すぐには言葉が出なかった。
自分が。制度を作る側に回る。かつて自分を切り捨てた、あの仕組みを。
「わたしにできるか、わかりません」
正直な言葉だった。
「難しいことは何もわからないんです。わたしにできるのは、薬草を育てて、温泉のお手入れをして、精霊たちとお喋りをするくらいで」
「それでいいのですわ」
リーナが微笑んだ。
「畝の数と、樋の直し方を、そのまま話してくださればよいのです」
「それだけで、いいんですか」
「ええ。条文の言葉に写すのは、わたくしの仕事ですわ」
その時、戸口に人影が差した。
フェリクスだった。夕餉の支度ができたと呼びに来たらしい。上着にはまだ夜気の匂いが残っている。彼はミーリアの手の中の帳面と、向かいに座るリーナを順に見た。
それから、少しだけ表情を和らげた。
「……お前が決めればいい。俺は、どっちでも支える」
短い言葉だった。ミーリアは帳面の背を、膝の上で握り直した。親指が、擦り切れた表紙の角に触れる。
「……少しだけ、考えさせてください。でも」
顔を上げた。
「わたしと同じ思いをする人が、もういなくなるなら。それなら、わたしにできることを、やりたいです」
リーナの瞳が、わずかに揺れた。
「感謝いたしますわ、ミーリアさま」
* * *
夕餉の後。
リーナを宿へ送り、ミーリアはフェリクスと二人で家路を辿った。月が谷を照らしている。
「制度なんて、大それたこと引き受けて、よかったのかな」
「お前らしい」
「え?」
「困ってる誰かを、放っておけない。追放された時からずっとそうだ」
ミーリアは少しだけ俯いた。頬が熱い。
夜道を、二人分の足音が並んで進む。尾根をくだる夜気が、薬草の匂いをかすかに含んでいた。フェリクスは何も言わず、歩調をミーリアに合わせている。
ミーリアは帳面を抱え直し、歩幅を半歩ひろげた。抱えた角が、歩くたび脇腹に当たる。道の脇の畝では、先週蒔いた種がまだ土の下にある。
その時、リーナの言葉がふと甦った。夕餉の席で、彼女は帳面を閉じながら、こう言っていた。
「——ただ、覚悟はしておいてくださいまし。この改革を、快く思わない者もおりますの」
「甘い汁を吸ってきた者たちは、必ず抵抗しますわ。たとえ、こんな辺境にまで手を伸ばしてでも」
ミーリアは足を止め、月を見上げた。白い月が、静かに谷を照らしている。封印が安定して以来、赤みを帯びることのなくなった、穏やかな月。
隣で、フェリクスが顎で山の向こうを示した。
「あっちだけ、星が出てない」
帝都のある方角だった。稜線の上に、雲とも霞ともつかないものが低く垂れている。
「何かあれば、俺がいる」
ミーリアは小さく頷き、帳面を胸に抱え直した。表紙の下で、白い頁が十七行ぶん、まだ空いている。




