帝都の令嬢辺境に降り立つ
朝から、グリュンハイムは落ち着かなかった。
村の男たちが山道の草を刈り、女たちは集会所を掃き清めている。マルタは温泉宿の一番いい部屋を整え、ハンス村長は朝から三度も身なりを確かめていた。
「ミーリア、髪が跳ねてるよ」
ロッテが櫛を手に近づいてきた。
「ロッテおばさん、そんなに気にしなくても……」
「帝都のお貴族さまが来るんだ。あんたは辺境の顔なんだから、少しはめかしこみな」
ミーリアは大人しく櫛を通してもらった。薬草園で摘んだ小さな白い花を、ロッテが一輪、髪に挿してくれる。
「よし。これでいい」
広場のほうで、ハンス村長が村人たちに指示を飛ばしていた。
「花を飾れ、花を! いや、飾りすぎるな。素朴なほうがいい……いや、やっぱり飾れ!」
「村長、さっきから言うことがころころ変わるよ」
ロッテが呆れたように笑った。緊張しているのは、村長も同じらしい。
〈きれい〉
フィルが肩の上で明滅した。テラが足元を回り、広場のほうへ転がっていっては、また戻ってくる。三度目に戻ってきたテラを、ミーリアは指ですくい上げた。
* * *
昼近く。
山道の下から、子どもの声が谷を駆け上がってきた。
「来たー! 馬車だー! すごく大きい!」
村人たちが一斉に手を止めた。ミーリアも薬草園から広場に下りていく。
山道を、一台の馬車が上ってくるのが見えた。帝都の紋章を掲げた立派な車体だ。舗装のない辺境の道に慣れていないのだろう、車輪が石に乗り上げるたびに大きく揺れている。
馬車が広場の手前で止まった。
まず降りてきたのは、青い顔をした従者たちだった。長い山道の揺れで、足元がふらついている。そこへ、フィルの光が目の前を横切った。
「な、なんだ今の光は……!」
「精霊ですよ。悪さはしません」
ミーリアが声をかけると、従者はますます青ざめた。
別の従者は、谷を満たす湯煙を見て目を丸くしていた。
「あ、あれは煙か? ど、どこかで火事が……!」
「温泉の湯気です。この谷は、あちこちの地面からお湯が湧いているんですよ」
「湯が……地面から?」
従者たちが顔を見合わせた。一人が道端の湯だまりの縁にしゃがみ、指先をそっと浸して、すぐに引っ込める。
そして、最後に。
落ち着いた足取りで、一人の令嬢が馬車から降り立った。
淡い銀の髪をきっちりと結い上げ、旅装でありながら背筋が伸びている。長い山道を越えてきたはずなのに、乱れひとつ見せていない。彼女はぐるりと谷を見渡し、湯煙の立ち上る温泉郷を静かに眺めた。
「これが、グリュンハイム」
リーナ・クレスタフェルデだった。
* * *
「よくいらっしゃいました、リーナさま。遠いところを……」
ミーリアが歩み寄ると、リーナは真っ直ぐにこちらを見た。淡い紫の瞳が、少しだけ和らぐ。
「お久しぶりですわ、ミーリアさま。手紙では何度もやり取りしましたけれど、こうしてお会いするのは初めてですわね」
「はい。あの、お疲れではないですか。すぐにお茶を——」
「その前に」
リーナが片手を上げた。従者たちがびくりと背を伸ばす。けれど彼女の視線は、村の風景に向けられていた。
「なんて、豊かな土地」
湯煙が谷を満たし、薬草園の緑が朝日に輝いている。源泉のほとりでアクアが淡く光り、畑の畝をテラが転がっていく。帝都では見られない光景だった。
従者たちは馬車の脇から動かず、荷を抱えたまま立っている。リーナだけが数歩前へ出て、湯気を含んだ空気を深く吸い込んだ。
「話には聞いていましたけれど……想像の何倍も」
リーナがゆっくりと歩き出した。従者が慌てて後を追う。彼女は薬草園の手前で足を止め、屈み込んで土に触れた。指先で土をひとつまみ、しばらくそれを見つめている。
「リーナさま?」
「……この土地の旋律、聴いたことがありませんわ」
リーナの声が、わずかに沈んだ。
「大地そのものが、歌っているよう。帝都の枯れた石畳とは、まるで違う。ミーリアさま、あなたが辺境を蘇らせたと聞きましたけれど——本当だったのですね」
ミーリアは何と答えていいかわからず、少しだけ視線を落とした。
「わたしだけの力じゃありません。フェリクスさんや、村のみなさんや、精霊たちや……みんなで、少しずつ」
「その方たちのお名前を、順に伺ってもよろしくて」
リーナが立ち上がり、腰の革帯から掌ほどの帳面を抜いた。指先に残った土をちらと見てから、短く何かを書きつける。
「畑を開いた方、湯を引いた方、薬草を摘む方。どなたが、どこを」
「……全部、書き留めるんですか」
「ええ。まずはこの土地を、ゆっくり見せていただきたいのですわ」
リーナは帳面を閉じ、指についた土を旅装の裾で払わずに、掌をもう一度地面につけた。
* * *
温泉宿へ向かう道すがら、リーナは村の一つ一つに目を留めた。湯治客のための共同浴場、ロッテの調合薬を並べた棚、集会所の掲示板。何気ない辺境の暮らしを、彼女は熱心に見て回った。
ハンス村長が、緊張した面持ちでリーナの前に進み出た。
「よ、ようこそおいでくださいました。こんな山奥に、帝都のお方が……何のおもてなしもできませんが」
「村長さん」
リーナが足を止め、村長に向き直った。
「立派な村ですわ。道は隅々まで手入れされ、人々の顔は明るい。帝都の貴族街より、よほど豊かに見えますもの」
ハンス村長が、目を瞬かせた。
「そんな、もったいないお言葉で……」
輪の後ろで、誰かが小さく笑った。止まっていた箒の音が、また鳴りはじめる。
「マルタさん、こちらが土産物の石鹸ですわね。いい香り」
「へえ、ミーリアさまが作ったんですよ」
「ミーリアさまが……」
リーナが石鹸を手に取り、匂いを確かめた。その手が、ふと止まる。
彼女の視線が、薬草園のほうへ向いた。正確には、その端に作られた小さな一角へ。
「あの畝は、何を植えていらっしゃるの」
カイトの種を植えた場所だった。
「知り合いから届いた種です。まだ芽は出ていなくて……」
リーナはしばらく、その一角を見つめていた。眉が微かに寄っている。何かを聴き取ろうとするように、目を細めた。
けれど、すぐに表情を戻した。
「……いえ。なんでもありませんわ。長旅で、少し耳が疲れているのかもしれません」
リーナは微笑んで、また歩き出した。
その背中を見送りながら、ミーリアは薬草園の一角に目をやった。テラがいつの間にか、その畝の傍らで静かに光っている。土の下で、何かがゆっくりと脈打っている気配がした。リーナは、あの畝の何に気づいたのだろう。
ミーリアは髪に挿してもらった白い花にそっと触れ、遠ざかる令嬢の背を、もう一度見つめた。




