第23話 信じて下さい
森の中で鳴り響く、風切り音と轟音。
黒咲さんの糸が宙を裂き、ヴィジルに迫ります。
対するヴィジルはそれをガードして、前に出ると同時に、黒咲さんに剛拳を繰り出していました。
その威力は凄まじく、回避した黒咲さんの背後にあった大木を、小枝のようにへし折っています。
当たれば体に、穴が開きそうですね……。
背筋が寒くなるほどですが、黒咲さんの表情には変化がありません。
それが強がりなのか本当に何も感じていないのか、わたしには判断出来ませんでした。
ただ、やるべきことはわかっています。
黒咲さんを狙って拳を振り切った体勢のヴィジルに、背後から斬り掛かりました。
足裏と峰から魂力を噴出させる、超速の踏み込みと加速する斬撃。
覚醒状態のヴィジルですら完全には対処出来ず、身を捻って躱そうとしたところを、肩口から腰に掛けて袈裟斬りにします。
血飛沫が舞い、確かな手応えがありましたが、彼は獰猛な笑みを浮かべて前蹴りを放ちました。
避けるのは難しいと結論付けつつも、わたしは焦ることなく『葬命』を納刀して腰溜めに構えます。
その行動が意外だったのか、ヴィジルの目が僅かに見開かれ――
「させません」
「……ッ! うざったいね!」
ヴィジルが伸ばそうとした脚を、黒咲さんの糸が絡め取りました。
それによって動きが止まり、この展開を予測していたわたしは、全力で踏み込みながら抜刀します。
逆袈裟に振り上げられた刃は、ヴィジルの左腕を捉え、斬り落としました。
ドサッと、重いものが地面に落ちる音が聞こえ、傷口から鮮血が溢れ出します。
流石のヴィジルも痛みに顔を顰めていましたが、反対の手で傷口を押さえつつ、黒咲さんの糸から脱出していました。
行けます……。
これは油断ではなく、客観的な事実としてそう感じました。
1対1ならどうかわかりませんけど、黒咲さんと一緒なら大丈夫でしょう。
ただし……これがヴィジルの本気ならです。
納刀しながら黒咲さんの横顔を窺うと、彼女も同じ懸念を抱いているのか、険しい面持ちになっていました。
対するヴィジルは顔中に汗を浮かべながら、歪な笑みで口を開きます。
「やってくれたね、無明夜宵! こんなに痛いのは、久しぶりだよ!」
「そうですか。 でしたら、首を差し出して下さい。 そうすれば、楽になりますよ」
「言うね、黒咲夢愛! でも、ちょっと気が早いんじゃないかな? まだまだ、始まったばかりだろう?」
「左腕を失って、わたしたちに勝てると思っているんですか? 黒咲さんの言う通り、降参するなら今のうちです」
「『十魔天』を侮ってもらったら困るな、無明夜宵! この程度の傷……どうとでもなるのさ!」
ヴィジルが叫んだ瞬間、彼の腕が新たに生えました。
何と言う再生能力でしょう……。
わたしは警戒の度合いを引き上げていましたが、黒咲さんは平然としていました。
「『十魔天』なら、それくらいはするでしょうね。 ですが、大きく魔力が減っています。 そう何度も、同じ手段が使えるとは思えません」
「憎たらしいほどに、冷静だね! でも、心配はいらないよ! ここから先は、俺のターンなんだから!」
更なる覚醒を自身に施したのか、ヴィジルの魔力が更に強力になり、体も膨れ上がっています。
口調も「僕」から「俺」に変わっている辺り、野蛮な雰囲気も増しているような気がしました。
黒咲さんもそれを察したのか、口を閉ざして攻撃に備えています。
するとヴィジルはニヤリと笑い――地面が爆発したような勢いで、突撃しました。
速い……!
狙いはわたしです……!
そう思ったときには、既に拳を振り上げており、間髪入れずに叩き付けて来ました。
しかし、それを予見していた黒咲さんは糸で腕を縛り上げ、わたしに攻撃するチャンスを作り――
「無駄だよッ!」
強引に腕を振り切ったヴィジルが、糸を引き千切りながら殴り掛かって来ました。
滅茶苦茶ですね。
彼女の糸は黒咲家の総力をもって作り上げた、特注品だと聞いていたんですけど。
などと考えている場合ではありません……!
「ふッ……!」
カウンターで『葬命』を抜き放ったわたしの一閃と、ヴィジルの拳が衝突します。
大気が震えるほどの衝撃が走り、地面に両足が沈みました。
重いです……が、一色くんの一撃に比べれば……!
歯を食い縛ったわたしは、全力を持って刃を押し込み――急に支えを失いました。
え?……と思ったのは一瞬で、即座に状況を把握します。
わざと力を抜いたヴィジルがわたしの体勢を崩し、頭上から踵を落とそうとしていました。
やられました。
ずっと力押しで来ていましたが、ヴィジルの体術も決して拙い訳ではなかったようです。
浅慮だったことを嘆きそうになりましたが、それはあとにしましょう。
足裏から魂力を放出したわたしは、全力で後退しました。
その直後、ヴィジルの踵が目の前を通り過ぎ――激震。
地面がひび割れ、森が大きく震えました。
なんて威力ですか……。
背中にびっしりと汗をかきましたけど、それどころではありません。
笑みを深めたヴィジルが、またしても殴り掛かって来たからです。
黒咲さんが糸を失い、【夢幻泡影】が通用しない以上、ここはわたしが頑張るしかないですね。
覚悟を固めたわたしは、ヴィジルと1対1で勝負を決める気でいました――が――
「言ったでしょう。 1人で戦おうとしないで下さいと」
黒咲さんの静かな声が耳に届き、ヴィジルの動きに変化がありました。
これは……。
詳細はわかりませんが、状況を理解したわたしは、臆することなく刃を真一文字に繰り出しました。
ヴィジルの攻撃に対しては無防備で、本来なら相打ちでしたけど……当たりません。
拳がわたしの傍を通過し、『葬命』はヴィジルの胴を深く斬り裂きました。
流石に驚いたのか、ヴィジルは瞠目しつつ跳び退り、黒咲さんを忌々しそうに睨んでいます。
それでも黒咲さんが萎縮することはなく、軽く受け流していました。
お見事ですね……。
わたしは内心で称賛していましたが、ヴィジルからすれば捨て置けない攻防だったでしょう。
傷付いた胴は早くも回復しつつありますが、それに伴って魔力が減少していました。
【アウェイク・サージ】で再び強化出来るとしても、黒咲さんの言っていた限界に近付くはずです。
そのことを自覚しているのか、ヴィジルは吐き捨てるように言い放ちました。
「どうやら、【夢幻泡影】の力は睡眠だけじゃなかったようだな。 真の能力は、五感を狂わせる……と言ったところか?」
「さぁ、何のことでしょうか」
「とぼけるな。 今の俺の攻撃が空振りしたのは、視覚を狂わせたからだろう? いやはや、思ったよりも厄介な能力だ。 ただな……」
そこで言葉を切ったヴィジルは、爆発的な魔力を練り上げました。
筋肉も膨張していて、上半身のスーツは弾け飛び、ズボンもパツパツになっています。
逆立った髪と狂暴そうな面構えは、当初の印象とは掛け離れていました。
最早別人となったヴィジルと相対したわたしと黒咲さんに、彼は居丈高に宣言したのです。
「俺の【アウェイク・サージ】の前では、無力なんだよ! 何段階にも覚醒させた視覚や聴覚、触覚を狂わせることなんか、不可能だ! 嗅覚と味覚は、戦闘には関係ないしな!」
「いいえ、案外関係あるかもしれませんよ? 特に嗅覚なんて、重要ではないですか?」
「その手には乗らないぞ、黒咲夢愛! 俺がボーダーを超えて強化するのを狙ってるんだろうが、何度も言うようにそこを間違えたりはしない! 諦めて死ね!」
言い終わる前に、黒咲さんに向かって駆け出すヴィジル。
覚醒を重ねたことで、血の気も多くなっているのかもしれません。
途轍もないスピードで、ガイゼルが可愛く思えるくらいでした。
黒咲さんは微動だにしておらず、一見すると反応出来ていないかのようですが……それは違います。
わたしの目には、彼女が確かな勝算を持って臨んでいるように、見えていました。
「ワンパターンですね」
「むッ!?」
ヴィジルの拳が黒咲さんに届く寸前、彼の動きがピタリと止まりました。
糸が通用するはずないのに何故――と、ヴィジルは思ったかもしれません。
しかし黒咲さんの【夢幻泡影】には、まだ能力が隠されているんですよ。
ヴィジルをがんじがらめにしているのは、糸ではなく彼自身の影。
細い蔓のように変形しており、完璧にヴィジルを拘束しています。
そのことに気付いたヴィジルは、脱出しようとしたようですが、判断が遅れました。
「死んで下さい」
「ぐはッ!」
今度は影が棘となり、ヴィジルを滅多刺しにしました。
【夢幻泡影】は単なる幻惑系の言魂ではなく、確かな殺傷能力を持っていると言うことです。
そして、この状況を作り出したもう1つの要因は、黒咲さんの分析力。
ヴィジルの覚醒段階が上がるにつれて、パワーやスピードが一定の割合で上昇することに、彼女も気付いていたんでしょう。
要するに、どれだけ速くてもタイミングさえ間違わなければ、カウンター出来ると言うこと。
もっとも、実際はかなり難しかったはずですけど。
何にせよ、千載一遇のチャンスです。
全身を貫かれて弱っているヴィジルに、わたしは跳び掛かりました。
『葬命』を振り被り、あとは首を斬り落とせば――
「目覚めろッ!」
ヴィジルが叫んだ瞬間、わたしの全身を支配したのは――恐怖。
怖い。
物凄く怖いです。
ヴィジルが怖い、魔族が怖い、戦うのが怖い、ここにいるのが怖い、生きているのが怖い。
手に力が入らず、震えが止まりません。
攻撃は不発に終わり――ヴィジルの回し蹴りが、わたしを捉えました。
「かはッ……!」
「無明さん!?」
黒咲さんの焦った声が耳朶を打ち、地面を滑って止まると、遅れて痛みがやって来ました。
痛い、怖い、逃げたい、助けて。
そのような負の感情が溢れ出し、立ち上がる気力すら湧いて来ません。
そんなわたしの目に飛び込んで来たのは、恐怖の対象であるヴィジル。
黒咲さんの影から逃れ、至極楽しそうに声を上げました。
「どうだ、無明夜宵? 怖いだろう? それが、お前が心の奥底に封じ込めていたものだ」
「ど、どう言う……ことですか……?」
「くく、声にも力がないな。 まぁ、仕方ないが。 改めて教えてやるが、俺の【アウェイク・サージ】の能力は、覚醒だ。 だが、その対象は自分だけじゃないことを忘れたか?」
「……! なるほど……」
「気付いたか、黒咲夢愛? 俺が覚醒させたのは、恐怖心だ。 こいつを限界まで呼び起こしたことで、もうまともに立つことすら出来ないだろう? ましてや、戦うなんざ絶対無理だ。 本当は黒咲夢愛も同じ目に遭わせるつもりだったんだが……【夢幻泡影】で上手く凌いだみたいだな」
ヴィジルの言葉の意味を、わたしはあまり理解出来ていませんでした。
厳密に言うと、そんな余裕はありませんでした。
とにかく怖くて、自分が何を怖がっているかもわからないことも怖くて、この状態が続けばどうなるかも怖いです。
何もかもが怖くなったわたしは、地面にへたり込んで両手で自分の体を抱き締め、ガタガタ震えることしか出来ませんでした。
涙が溢れて止まりません。
もういっそのこと、早く殺して欲しいとすら考えてしまいました。
そのとき――
「大丈夫ですよ、無明さん」
黒咲さんの、優しい声が聞こえて来ました。
ハッとしたわたしが目を向けると、彼女はいつもの無表情ではなく、柔らかく微笑んでいます。
より一層衝撃を受けているわたしに構わず、黒咲さんはゆっくりと噛んで含めるかのように、言葉を紡ぎました。
「ヴィジルは、わたしが倒します。 そうすれば、貴女は元に戻れるはずです。 ですから、安心して下さい」
「く、黒咲さん……」
「信じて下さい」
「……わかりました」
今もわたしの中には恐怖が渦巻いていますが、瞬くほどの微かな光が灯った気がします。
涙に濡れた瞳で黒咲さんを見つめ、小さく頷きました。
すると黒咲さんは、一瞬だけ笑みを深め、次いで冷徹な表情をヴィジルに向けました。
彼はどこか不機嫌そうでしたが、すぐに余裕を取り戻して言い放ちます。
「強がりはよすんだな、黒咲夢愛。 2人掛かりでやっとだったのに、1対1で勝負になると思っているのか?」
「やってみなければ、わかりません」
「は! 計算高いお前のセリフとは、思えないな。 良いだろう。 まずはお前を殺して、絶望の底に沈めた無明夜宵を、連れ帰ってやる」
「わたしがそれを、許すと思いますか? 貴方はここで終わりですよ」
「その虚勢、いつまで続くか見物だな。 今更、命乞いは聞かんぞ!」
叫喚を上げたヴィジルが、もう1段階覚醒しました。
これで、【夢幻泡影】の五感操作はますます通じ難くなり、影による攻撃も効かないかもしれません。
それでも黒咲さんは退くことなく、堂々たる佇まいでヴィジルと向き合い――わたしは、動くことが出来ませんでした。




