第三章 賽は投げられたⅩⅩⅩⅩⅠ
長い夢を見ていた。
よく覚えていないが、昔を思い出していたのかもしれない。
ガイウスが目を覚ましたのは、窓から差し込む朝日が顔を照らしたタイミングだった。
――今は、いつだ?
そういえば、昨夜はやけに体が怠く、そのままベッドに横になってしまっていたなと、思い出す。
ここではない遠い記憶の彼方に飛んでいた意識を引き戻すように、ガイウスは体を起こした。床に足を着き、徐に立ち上がる。周囲を見渡して、何の変哲もない、いつもの自室であることに、妙な安堵と儚さを覚えた。
時刻はすでに朝の六時を回っている。日課より一時間も遅く起きてしまった。
幸い、業務には寝坊で遅れることはなさそうだったが、ガイウスは早々に身支度に取り掛かった。
法衣を脱ぎ捨て、まずはシャワーを浴びる。昨日あった強烈な倦怠感が消えた代わりに、体には酷い寝汗が纏わりついていた。少し温めのお湯で全身を軽く洗い流したあと、ガイウスは少し伸びた髭を剃刀で丁寧に剃り落とす。それから体を洗い流し、手早くタオルで体を乾かした。
そうして、替えの法衣を着て鏡の前に立った時には、いつも通りの威厳溢れるアーノエル六世の姿がちゃんと出来上がっていた。
自室を後にしたガイウスは、すぐに教皇専用の執務室へ向かった。
道中すれ違った司祭たちからいくつもの挨拶を受けながら、床を規則正しく鳴らしていく。
執務室に入ると、ガイウスはデスクに座らず、壁に並ぶ本棚に直行した。奥に隠れている巨大な扉を開け、中の昇降機に乗り込む。
間もなく昇降機が最下層に到着し、降りた先には聖域――何も見えない真っ暗な空間だ。
暗闇の中を暫く歩いたガイウスは不意に足を止め、静かに目を瞑る。
次に目を開いた時、彼の眼前には白い空間が広がっていた。
「今日でここに来るのも最後だ、聖王」
そこにただ一つ存在する木の丸椅子と、その上に座るローブの人物――聖王の前に、ガイウスは立っていた。
呼びかけられた聖王は、俯きがちだった顔を少し上げる。
『すでに、すべての準備が整った。その結論に至るのは正しい』
「これで、本当に“創世の魔術”を発動できるんだな?」
ガイウスの問いに、聖王は静かに頷いた。
『理論上は。あとは、お前がこれまでに行った研究の成果次第だ。“セフィロト”を基にして作られた“騎士の聖痕”を調べつくしたのであれば、期待する結果を得られるはず』
「“騎士の聖痕”の本質は人間の身体強化ではなく、ヒトの人為的な進化にあった。それは物理的な作用だけに留まらず、魂の概念をも左右する常軌を逸脱した代物だった」
『そうだ。私はそれを使い、人間を三つの種族に進化させた。そして今度は、お前が多くのヒトを魂だけの存在に進化させる。果たして、魂だけの存在になったヒトがどうなるか。生物的な死を迎えた死人と同じように、不可視のエネルギー体としてただ大地を巡り、やがて完全に消滅するだけの存在になるか。それとも、更なる上位存在へと昇華することになるか――神のみぞ知ると言ったところだ』
それを聞いたガイウスは、顔を顰めて鼻を鳴らした。
「魂に変えた後の存在に興味はない。どうとでもなればいい」
『甘く見るな。私が“創世の魔術”を使った結果、世界がどうなったかはお前にも伝えたはずだ。まして、お前が今まさに成そうとしている根本原因が、それなのだ』
「他人にケツを拭かせる物言いとは言えないな。だが、どうにかなるのであればそれで結構。お前の作ったこの世界の仕組みを終わらせることができるのであれば、その結果はもはや問わない」
『であれば、これ以上私から言うことはない。成功を祈る』
「いや、まだだ」
ガイウスは間髪入れずに否定した。
「まだ、お前に訊くことがある」
じっと聖王を見つめるその瞳には、確かな怒りが込められていた。
聖王は少し黙ったあと、フードの隙間から覗く口を小さく動かす。
『答えよう。時間の許す限り――』
「いつまでそのふざけた喋り方をするつもりだ、パーシヴァル」
鋭い声色で制したガイウス――凍てついた静寂のあと、聖王は徐に立ち上がった。
「なんだ、気づいていたのか」
そう言って聖王はフードを外し、素顔を露にした。
間違いなくそれは、パーシヴァルだった。
「薄々、バレているんじゃないかと思っていたけど、まさか本当に僕の正体に気付いていたとは驚きだ。いつから知っていた?」
睨むような視線で不敵に笑うパーシヴァルに、ガイウスはさらに強い眼光を返す。
「確信はなかった。だが、お前と聖王、両者と接するうちに、そうだとしか考えられなかった」
「恐れ入ったよ。さすがだ」
その言葉通りの態度でパーシヴァルは肩を竦め、足を組んで再度丸椅子に座った。
「で、何を訊きたい? 何だったら、外に戻った時にでも話すかい?」
「聖王であるお前が、何故俺にここまで協力した?」
パーシヴァルは姿勢を崩しながら小さく笑う。
「そんなの、君とやりたいことが同じだったってだけさ。僕もこの世界にはうんざりしている」
「これはお前が作った世界だ。それを、聖王などという信仰の対象になってまで二千年近くも見守り続けていたのにか?」
「僕がやったことは、間違いだった。それは今の世界を見れば一目瞭然。でも、術を使った当時はまったくそんなこと考えなかったんだ。何よりも、人々がそれを求めた」
「嫌々やらされたと?」
ガイウスの短い問いに、パーシヴァルはどこか皮肉めいた笑みを携える。
「“求めよ、さらば与えられん”――それを実行した結果がこのザマさ。情けない非力な男には力を与え、醜くうるさい女には朽ちない美貌を与え、能無しの枯れた老人には生きる技術を与えた。当時も弱者が苦しんでいた、だから求めるものを与えた。きっとこれで世界は良くなる。誰もが望んだ人生を送られる――だが結局、強者が弱者を支配する仕組みが変わることはなかった。前に君に話した通り、人間を進化させた果てに起きたのは、亜人たちによる人間の支配だった」
「そして次に、お前は騎士を生み出した」
「そう。そして人間は亜人の支配から脱却し、騎士を中心に教会を設立、そのまま大陸を管理することにした。教会が大陸の支配者に変わったあと、人間は急激に数を増やし、あっという間に亜人を凌ぐ社会的な力を身に付けた。当然、人間は亜人に対して復讐を始めた。今度は人間が亜人を虐げるようになり、それから紆余曲折あっての結果が今だ」
パーシヴァルは足を組み直し、前のめりにガイウスを見上げる。
「笑えるだろ? どれだけ姿かたちを変え、能力を身に付けたところで、行きつくところは結局同じだ。何度繰り返しても精神が未熟な奴らの外側が変わるだけで、調子付く強欲な強者と、嫉妬に喚く怠惰な弱者の関係は何一つ変わらなかった。そして、いつだって犠牲になるのはその間で慎ましく生きる者たちだ。バカバカしくなるよ」
「なるほど。確かに、俺と似ている。ちなみに、今までの教皇にも同じように働きかけたことはあったのか?」
ガイウスが訊くと、パーシヴァルは首を横に振った。
「協力したのは君が初めてだ。というより、こんなことをしようと動いたのは今まで君以外にいなかった。でも当然だ。教皇という絶対的な権力を手に入れたんだ。それを自ら台無しにする奴なんて、普通に考えているはずもない」
パーシヴァルは立ち上がり、ガイウスの目と鼻の先にまで距離を詰める。互いの瞳に、互いの顔が映るのを確認できるほどにまで迫る。
「だが、君は違った。そして、奇しくも君の世界を変えるという願いは、僕の責任感と罪悪感を強く刺激することになった。今日この時まで、世界を今の形にしたせめてもの贖罪として現世に留まり、見守ってきたが――僕もそろそろ疲れてきた。君というきっかけと原動力を得ることで、今あるものを造りなおせるならそうしたい。そう思ったんだ」
パーシヴァルは身を翻し、両腕を軽く広げる。
「そして、君は僕の見込み通りだった。“セフィロト”を拡張するため、それ基に作られた“騎士の聖痕”を研究することで見事その実現性に王手をかけた。ありとあらゆる手段を用いて――国家、要人、果ては身内を手にかけてまで、最後の大舞台を整えた。その容赦のない戦略性には脱帽し、戦慄した。聖王だなんだと言われている僕よりも、遥かにとんでもないことを君は成し遂げたんだ」
わざとらしく大袈裟にお辞儀をするパーシヴァルを、ガイウスは冷たく見下ろす。
「パーシヴァル、お前は、何者だった?」
問われ、姿勢を直したパーシヴァルの顔には相変わらずの薄ら笑いが浮かんでいた。だが同時に、不気味な暗い影が落ちていた。
「なんてことない。生まれも出身もわからない、面白半分に魔術を習わされた、ただの平凡な奴隷さ。名前だってない」
「ただの奴隷が、“創世の魔術”なんて大それたことを?」
「実行したのは僕の意思じゃない。当時の飼い主が、王の命令で奴隷を使っただけだ。だが、規模が大きく、多くの人間に作用する前例のない魔術はそのリスクがわからなかった。実際、研究の過程で何人もの魔術師が死んだ。だから、僕のような奴隷に魔術を習わせ、代わりに実行させることにしたんだ。成功した僕の時点で、確か百人目くらいだったかな」
「なら、お前が責任と罪悪感を抱いたという話は?」
「力を得た人間――亜人たちは瞬く間に既存の体制を蹂躙し、大陸全土を支配していった。数えきれない血が流れた。喚いた馬鹿どもに力を与えることを許した王すらも彼らに殺された。その時になって僕は、ようやく自分のやった事の大きさと責任、罪悪感を自覚した」
パーシヴァルの笑顔の下には、燻るような憎しみが宿されていた。
「その後、騎士を使って大陸に一時の平穏を取り戻した時には、僕の身体はすでに老いで朽ちる寸前だった。だから魂を肉体から引き剥がし、新たな器となる肉体を作り続け、名前を変え、姿を変え、時には騎士として師に従い、弟子を持ち、またある時には祭司として教えを説き、気分転換に国の要人になったり……いつの日か人類が、平穏な世界を作ることを夢見て――でも結局は、御覧の有様さ」
刹那、ガイウスの身体が形状を失い始める。
この空間にいられる限界を知らせる予兆だ。
「さて、そろそろ時間みたいだ。最後に、僕からもひとつ」
そう言って、パーシヴァルはガイウスに右手の人差し指を向ける。
「リディアが投げたサイコロは、今は君が握っている。それを投げれば、今度こそ世界は元に戻ることはない。それこそが最後の審判だ、ガイウス・ヴァレンタイン」
――君は本当に世界を変えるのか?
その問いかけを最後に、ガイウスの意識は現世に引き戻された。
床に倒れていたガイウスは、幽鬼のようにゆっくりと立ち上がる。
「……ああ。そのために、俺はここまで来たんだ」
ガイウスが“帰天”を発動させると、周囲の闇が慄くように青い光に照らされていった。
「久しぶりだ、こんな高揚感は……」
青い光は徐々にその力を強め、ついには稲妻を放つようになる。
「騎士になった時よりも、ずっと心が弾んでいる……」
ガイウスの頭上に出来上がった光輪は巨大で、三つに重なり合い、この地下空間を真昼の如く照らした。
「これでようやく、世界を変えられる。救われるべきヒトを救うことができる」
“天使化”の光が露にしたのは、広大な地下空間の石畳一面に描かれた、血染めの巨大な印章――写本の本体だった。
「聖王、よく見ておけ――」
ガイウスは右の拳を握りしめ、真下の写本を鬼気迫る顔で睨む。
そして――
「お前の過ちが、お前の生み出した原罪が――お前の創った辺獄が、跡形もなく消える様をな!」
全身全霊、渾身の力で拳を振り下ろし、写本を叩き割った。




