第29話 定時前、極限の打設準備(スタンバイ)
金曜日の午後十六時。
SDGs推進室の優秀なOLであり、狂える現場主義者である玲奈(ユーザーC)の視界は、どす黒い赤紫色に染まっていた。
「……通信環境の悪化が、いよいよ目に見えるレベルになってきましたね」
玲奈は、自身が三日三晩かけて構築した巨大なすり鉢状の決戦フィールド(巨大ピット)の上空五百メートルに浮遊したまま、眼下に広がる異様な光景を見下ろした。
仮想世界の空は、まるでひび割れたガラス細工のように無数の亀裂が走り、その隙間から『無』を象徴するような真っ白なノイズが漏れ出している。山の稜線や遠くの森の木々は、処理落ちによってポリゴンが剥き出しになり、カクカクとしたコマ送りのような動きを繰り返していた。
上位システムである『システム監査機構』が、この世界のデータを丸ごと初期化するためのプロセスを、着実に進行させている証拠だった。
本来であれば、神の如き権限を持つシステムの削除プロセスは、一瞬にして世界を更地化してしまうはずだ。
それがこれほどまでに遅延を引き起こしているのは、紛れもなく「現場」で戦う仲間の執念によるものだった。
> 『……Bさん! そのまま維持して! 現在、該当サーバーのCPU使用率が99.9%に張り付いてるわ!』
玲奈の視界の端に展開された、タスク管理ツール『Jira』の非公式チャット。
そこに、司令塔である結衣(A)からのテキストが猛烈な勢いで流れてくる。
> 『Bさんの国のNPCたちが引き起こしている「数万規模の鍛冶場でのふいごの往復運動(衝突判定)」。それが凄まじいトラフィックを生み出して、監査AIの削除プロセスを処理待ち(キュー)の泥沼に引きずり込んでる! システムの削除コマンドが、極限まで遅延してるわ!』
> 『……了解した。だが、こちらも長くは保たない』
現場指揮官である健太(B)のレスポンスは、テキストからでも彼が限界ギリギリの疲労を抱えていることが伝わってくるほどに短く、重かった。
> 『国民たちには限界を超えた過重労働を強いている。アイテムの過剰生成によるメモリリークも起き始めている。世界がフリーズするか、それともNPCたちの命が尽きるか……時間の問題だ。ユーザーC、そちらの準備はどうなっている?』
「……全く、他人に過重労働を強いるなんて、労働基準法違反も甚だしいですね。まあ、今回は『世界を救うための緊急避難的措置』として目を瞑りましょう」
玲奈はJiraの音声入力マイクに向かって淡々と答えながら、自身の目の前に浮かぶ「巨大な黒い球体」へと視線を戻した。
「こちらの『準備』は、最終の品質検査(QC)フェーズに入っています。工期に遅れはありません」
彼女の目の前——巨大ピットの上空に鎮座しているのは、玲奈が昨夜から今日の午後にかけて、一切の手を抜かずに錬成し続けた『超高密度圧縮粘土塊』であった。
通常の土砂データを、何千回、何万回と圧縮コマンドで重ね合わせ、内部摩擦角と含水比を極限まで弄り回した、物理演算のバケモノ。
その総重量は、推定三百万トン。
あまりの質量と密度に、周囲の光のテクスチャすら歪んで吸い込まれそうになっている。
「問題は、この三百万トンの『土砂』を、どのタイミングで、どの角度で打設するかです」
玲奈はホログラムのコンソールを展開し、空中に固定させている粘土塊の座標系(X・Y・Z軸)をミリ単位で微調整していく。
普通のプレイヤーなら「重いものを落としてダメージを与える」程度にしか考えないだろう。
だが、玲奈は大手ゼネコンのSDGs室で、日常的に施工計画書や地盤調査データに触れているプロフェッショナルだ。彼女が狙っているのは、単なる落下ダメージではない。
「土には『安息角』というものがあります」
玲奈は一人ごちながら、眼下の巨大なすり鉢状の地形をスキャンした。
「土砂が自然に積み上がって崩れない、ギリギリの限界角度。この巨大ピットの斜面は、あらかじめ安息角の極限である三十九度に設定して構築しました。そこへ、この三百万トンの質量を『起爆剤』として一点に集中投下する」
彼女の頭脳には、完璧なシミュレーションが描かれていた。
「限界角度で保たれていた斜面に、許容量を遥かに超える物理的衝撃が加わればどうなるか。地盤は一瞬にして液状化し、斜面全体を巻き込んだ致死的な流動化現象——すなわち『大規模な土石流』が発生します」
これが、データサイエンティストである結衣(A)が立案し、玲奈(C)の土木知識が具現化した、システム監査機構に対する『自爆トラップ』の全貌だった。
サーバーの処理能力が99.9%まで逼迫しているこの状況下で、三百万トンもの土砂が複雑に摩擦し合いながら崩壊する「土石流の物理演算」が突然放り込まれれば、サーバーは間違いなくオーバーフローを起こす。
削除プロセスを実行しようとしている監査AIたちごと、システムの処理を物理演算の暴力で圧殺するのだ。
> 『……警告。未定義の大規模オブジェクトの生成を検知。違法なデータ改ざんとして、該当座標の事前消去を推奨します』
突如、玲奈の視界に無機質なシステムアラートが割り込んだ。
見上げると、赤黒くひび割れた空の一部が、まるで巨大な眼球のように玲奈のいる上空へと焦点を合わせていた。
「チッ……上流システムも馬鹿ではありませんね。こちらの『納品物』の異常なデータ量に気づいて、直接消しに来ましたか」
**ピキキキキッ!**
玲奈の足元の空間にノイズが走り、巨大ピットの一部が更地(初期テクスチャ)へと戻されそうになる。
システムの削除プロセスが、ラグの泥沼の中から這い出し、玲奈の「現場」を違法解体しようと牙を剥き始めたのだ。
> 『玲奈ちゃん! 気をつけて! 監査AIの先行プロセスがそっちに向かったわ! なんとか凌いで!』
「焦らないでください結衣さん。現場のトラブルは日常茶飯事です。無許可の解体業者への対応マニュアルは、私の頭の中に完璧にインプットされていますから」
玲奈は一切の動揺を見せず、腰に提げたツールベルトから光輝くトンカチ(初期装備のクラフトツール)を抜き放った。
「データが消されるなら、消される以上の速度で『上書き(コミット)』し続けるまでです!!」
玲奈は空中にホログラムの足場を展開し、凄まじい速度でキーボードを叩き、トンカチを振るい始めた。
システムが巨大ピットの斜面を消去しようとする端から、玲奈はインベントリに溜め込んでいた土砂データを次々と「盛土」として追加し、地形データを強制的に更新していく。
> 『エラー。該当座標のデータが更新されました。消去プロセスを再計算します』
> 『エラー。該当座標のデータが再び更新されました。再々計算します』
「ふはははは! どうしましたクソ運営! 現在進行形で『工事中』のアクティブなデータを、そう簡単にフォーマットできると思いましたか! 私という現場監督がここに立っている限り、この現場の生存フラグは私が握っているんですよ!」
玲奈の手元から放たれる圧倒的な打設速度。
それはもはやゲームのプレイングの域を超え、労働に対する対価(バイト代)をもぎ取るための、怨念にも似た執念であった。
システムが消す、玲奈が盛る。システムが消す、玲奈が固める。
果てしなく続くイタチごっこの中で、時計の針は残酷なまでに進んでいく。
時刻は、午後十七時五十分。
決戦の「18:00:00」まで、残り十分を切った。
> 『……Bさん! 限界よ! システムのメインプロセスが、ラグの拘束を強引に引きちぎろうとしてる!』
Jiraのチャットで、結衣が悲鳴を上げた。
その言葉通り、赤黒い空の亀裂が一気に広がり、その向こう側から、無数の白い光の柱が地上へと降り注ぎ始めた。
光の柱は、巨大ピットの縁を取り囲むように着弾し、その中から無機質な人型のプログラム——『監査AI』の先行部隊が次々と姿を現す。
彼らは一切の感情を持たず、ただバグを排除するためだけに、すり鉢の底(最も効率的に世界を消去できる座標)へと向かって、無言で行進を開始した。
> 『くそっ……! 俺の国も、もう限界だ……! NPCたちの半数がダウンした! これ以上のラグは維持できない……!』
> 『ユーザーC! 監査AIたちがすり鉢の底に集結し始めてる! 18時ジャストに一斉消去コマンドが発動するわ! 準備は!?』
仲間たちの悲痛な叫びが飛び交う中。
玲奈は、目前に迫る白い軍勢を一瞥だにせず、ただ己のコンソールに表示された「時計」だけを冷徹に見つめていた。
「……現在時刻、十七時五十九分三十秒。粘土塊の座標固定、異常なし」
彼女は深く息を吸い込み、現場での『指差呼称』を完璧なフォームで行った。
「座標ヨシ! 安息角ヨシ! 密度ヨシ!!」
時計の秒針が、五十秒を回る。
すり鉢の底では、無数の監査AIたちが円陣を組み、世界を無に還すための強烈な光(削除コマンド)をチャージし始めていた。
「十七時五十九分、五十五秒……」
玲奈の指が、三百万トンの粘土塊を空中に固定している『ドロップ(固定解除)』ボタンの上に静かに添えられる。
「五十六……五十七……五十八……」
システムの放つ無慈悲な光が、世界を飲み込もうと膨れ上がる。
だが、その強大な神の権限すらも、大手ゼネコンSDGs室OLの「絶対的な定時(納期)への執着」を前にしては、単なる背景でしかなかった。
「五十九……」
玲奈の瞳に、狂気とプロフェッショナリズムが交錯する炎が宿る。
労働基準法との決着をつける、運命の『定時』が、今まさに訪れようとしていた。




