第30話 定時ジャストの打設(プッシュ)と一時凍結
金曜日の午後十七時五十九分。
玲奈が立つ仮想世界の空は、まるでひび割れた安物のステンドグラスのように、どす黒い赤紫色と不気味な純白のノイズが交錯する異様な様相を呈していた。
決戦の舞台として玲奈が構築した巨大なすり鉢状の地形——半径数百メートルにおよぶ『巨大ピット』の底へ向けて、空の亀裂から無数の白い光の柱が降り注いでいる。
光の中から現れたのは、のっぺらぼうで純白のマネキンのような姿をした『監査AI』たちだった。彼らは一切の感情を持たず、武器すら持たない。ただ両腕を水平に広げた無機質な『Tポーズ』のまま、システムに生じたバグ(世界そのもの)を更地化するためだけに降臨した、絶対的な上位権限の執行者たちである。
> 『——警告。該当インスタンスにおける致命的なイレギュラーを検知。これより、全オブジェクトの強制消去を実行します』
空全体から響き渡る、機械的なシステムアナウンス。
監査AIたちは巨大ピットの底で一糸乱れぬ動きで円陣を組み、その足元には世界を丸ごと無に還すための巨大な光の魔法陣——すなわち、削除コマンドのプロンプトが展開されようとしていた。
> 『くそっ……! 俺の国のNPCたちにも限界が来ている……!』
裏側で接続された非公式チャットツール『Jira』の画面に、現場指揮官である健太(B)の悲痛なテキストが叩き込まれる。
彼が治める大帝国では、数万人のNPCたちが一斉に鍛冶場のふいごを引き、無数のアイテムを射出し続けるという極限の過重労働を強いられていた。すべては、サーバーの物理エンジンに膨大な『衝突判定』を発生させ、監査AIの削除プロセスを処理待ちの泥沼に引きずり込むためだ。
しかし、その無理な稼働もいよいよ限界を迎えていた。
> 『Bさん、持ち堪えて! 監査AIのメインプロセスが、いよいよフォーマットの最終承認を叩くわ! ここを突破されたら、私たちのデータは完全に消し飛ぶ!』
司令塔である結衣(A)も、トリプルモニターの前で血を吐くような思いでキーボードを叩き、システムの隙を突こうと必死に足掻いている。
だが、圧倒的な権限を持つ「システム(神)」の力を前にしては、プレイヤーの小細工など風前の灯火に過ぎなかった。
> 『——最終消去プロセス、承認。完了まで、あと十秒』
無慈悲なカウントダウンが始まる。
九、八、七……。
ピットの底で展開された魔法陣の光が極限まで膨れ上がり、周囲の岩や土のテクスチャが、光に触れた端からポリゴンの塵となって消滅していく。世界の崩壊は、もはや誰の目にも明らかだった。
六、五、四……。
誰もが絶望の淵に沈みかけた、その瞬間。
——ピピッ、ピピッ、ピピッ、ピーーーーン!!
巨大ピットの最上段、斜面の縁にぽつんと立っていた玲奈(ユーザーC)のスマホから、小気味よいアラーム音が鳴り響いた。
それは、大手ゼネコンの社員たちが、一日の終わり、あるいは有給取得の開始を告げるために死守してきた誇り高き時報。
金曜日の午後十八時ジャスト。
完全なる「定時」の到来だった。
「——お疲れ様でした。定時ですので、これより通常の業務(世界消去)は一切受け付けません」
玲奈の瞳に、狂気と職人魂が入り混じった絶対的な光が宿る。
彼女は自分の目の前に浮かぶ半透明のコンソールパネルを指先で勢いよくタップした。
「仕様書通りの納期遵守、そして未払いバイト代の強制回収。——いきますよ、定時ジャストの一括納品です!!」
玲奈がタップしたのは、自身の頭上遥か五百メートルの空域に固定させていた『超高密度圧縮粘土塊』の座標ロック解除ボタンだった。
昨夜から今日の午後にかけて、玲奈が一切の手を抜かずに錬成し続けた物理演算のバケモノ。
通常の土砂データを何万回と圧縮コマンドで重ね合わせ、内部摩擦角と含水比を極限まで弄り回した、総重量およそ『三百万トン』の土の塊。
あまりの質量と密度に、周囲の光のテクスチャすら歪んで吸い込まれそうになっていたその巨大な黒い球体が、重力加速度という絶対的な物理法則の支配下へと解き放たれた。
——ズゴオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!!!!!
大気を引き裂く凄まじい轟音。
空気抵抗によってプラズマすら発生させながら落下する三百万トンの質量は、正確無比な軌道を描いて、巨大なすり鉢の縁——あらかじめ玲奈が限界ギリギリの『三十九度』に設定していた極限の安息角の斜面へと直撃した。
> 『インジェクション確認! |安息角物理シミュレーション《自爆トラップ》、本番環境へ強制適用!!』
結衣が裏口から仕込んでいた通信経路が、土砂の落下と同時に炸裂する。
限界角度で保たれていた巨大ピットの斜面に、許容量を遥かに超える三百万トンもの物理的衝撃が加わったのだ。
ズズ……ズザザザザザザザザザザザザザッッッ!!!!!!
決戦フィールド全体が、まるで巨大な生き物のようにうねりを上げた。
地盤が一瞬にして液状化し、斜面全体を巻き込んだ致死的な流動化現象——すなわち『大規模な土石流』が発生したのである。
すり鉢の底で、まさに世界消去のエンターキーを押そうとしていた監査AIたちの頭上に、想像を絶する厚みと質量を持った土砂の壁が、津波となって襲いかかった。
> 『エラー。計算リソースが限界を突破。想定外の質量データを受信……』
> 『エラー。物理エンジンのオーバーフローを検知。処理を……処理を継続できません……』
システムに感情はない。だからこそ、監査AIたちは逃げることすらできず、ただTポーズのまま無機質なエラーログを吐き出し続けた。
彼らは「データを消去する」ための権限は持っているが、「三百万トンの土砂の摩擦係数、含水比、そして数億にのぼる砂粒同士の衝突判定をリアルタイムで計算する」ための権限など与えられていない。
限界まで負荷がかかっていたサーバーの物理エンジンに、この常軌を逸した大規模計算が文字通り「雪崩れ込んだ」結果、何が起きるか。
「ふはははははは! 見なさい! これが現場のプロが叩きつける完璧な施工と打設の力です! 労働者の血と汗の結晶の重み、その身でたっぷりと味わうといいですよ、悪徳解体業者!!」
安全なピットの縁の上から、玲奈は高笑いを上げながらメガホン(アバターの演出)で叫んだ。
眼下では、世界の歴史を剪定しようとした神の軍勢が、自らが消去しようとした世界の「土砂」という極めて原始的な物理の暴力に飲み込まれ、次々と圧死していく。
サーバー全体のCPU使用率が100%を優に超え、メモリ領域は完全に枯渇。
無限に発生する衝突判定のループに飲み込まれた監査機構のプロセスは、完全に沈黙した。
そして、上位システムは自らのサーバーが物理演算の熱暴走で物理的に焼き切れるのを防ぐため、苦渋の決断を下さざるを得なかった。
> 『——FATAL ERROR』
> 『システムプロセスに重大な遅延および演算のオーバーフローを検知』
> 『……自己防衛プロトコルを作動。これより、該当インスタンスにおける消去シーケンスを、一時凍結します』
パリンッ、と甲高い音を立てて、空を覆っていた赤黒いバグのテクスチャの進行がピタリと停止した。
いや、停止しただけではない。システム側の強制消去プロセスは、文字通り「完全にその足を止めさせられた」のだ。
世界に、奇妙なほどの静寂が戻った。
巨大ピットの底は、三百万トンの見事な盛土によって完全に埋め尽くされている。荒れ狂っていた空間には、完璧なまでに均された美しい斜面の地層だけが残され、神の軍勢は一人残らず、その分厚いデータの地層の下へと生き埋めになっていた。
> 『……え……? 嘘……システムデリートが……止まった……?』
Jiraのチャットで、結衣が信じられないものを見るようなテキストを打ち込む。
> 『俺たちの国が……消去されずに、残っている……! 空の崩壊が止まったぞ!』
健太もまた、自らの帝国の生存を確認して、深い安堵と驚愕の入り混じった声を上げた。
強大な権限を持つシステム(神)の粛清を、たった一人のOLが引き起こした「物理演算の暴力」が力技でねじ伏せたのだ。
「ふう。定時後の不法侵入者(監査AI)の排除、および土砂の打設による地盤の安定化作業、これにて完了です。工期もバッチリ間に合いましたね」
現場の縁に立つ玲奈は、作業着の埃を手で軽く払い、すうっと満足げに息を吐いた。
しかし、彼女は動きを止めただけでまだ消滅こそしていない、赤黒い空の亀裂を見上げて冷ややかに目を細めた。
「まだシステムの根幹プロセス自体が完全に倒産されたわけではありませんね。私の定時後を邪魔し、未払いを踏み倒そうとしたこの理不尽なクソ運営……。このまま一時凍結で逃げ切れると思ったら大間違いです。SDGs目標8『働きがいも経済成長も』を推進する者として、徹底的な『事後監査』と『追加の現場検証』を行わなければなりませんね」
彼女の「悪質なクレーマー(神)に対する完全解体」のモチベーションは、ここで終わるどころか、むしろ最高潮に達しようとしていた。




