第28話 労働基準法(システム)との対決姿勢
金曜日の午前十時。
都心の一角にそびえ立つ、大手ゼネコン本社タワー。
その『SDGs推進室』のフロアで、玲奈は恐ろしいほどの集中力でキーボードを叩き伏せていた。
「……よし。来期の『サプライチェーンにおける人権・労働環境デューデリジェンスガイドライン』の改訂案、およびパートナー企業向けのコンプライアンス研修資料、作成完了です」
画面を閉じた玲奈は、寸分の狂いもない正確さでデータを社内サーバーにアップロードし、ふうと短く息を吐いた。
デスクの隣で缶コーヒーを飲んでいた先輩社員の男性が、目を丸くして彼女を見る。
「え、もう終わったの!? 玲奈ちゃん、それ来週月曜の提出期限じゃなかった?」
「はい。ですが、業務の前倒しは基本です。それに、本日は事前にお伝えしていた通り、午後から『急務』のため半日有給休暇をいただきますので」
「急務って……体調悪いとかじゃないよね? なんか朝から、目が『これから解体現場の違法建築に乗り込むガテン系労働基準監督官』みたいにバキバキだけど……」
「至って健康ですよ。ただ、|人間らしいやりがいのある仕事を脅かす理不尽な構造と、個人的に決着をつけに行くだけです」
静かに言い放った玲奈の言葉に、先輩社員は「あ、うん……SDGs室っぽい高尚な理由だね……?」と気圧されたように頷くしかなかった。
ディーセント・ワーク。
国連が掲げるSDGs(持続可能な開発目標)の『目標8:働きがいも経済成長も』の中核をなす概念である。
すべての労働者が、人権を尊重され、公正な報酬を受け取り、安全かつ衛生的な環境で働ける権利のことだ。
昨夜、スマホに届いたあの理不尽極まりないシステム警告メッセージ。
『次回定期メンテナンス(金曜18時)の時点でコミットが確認できない場合、未払いとなっている【建築作業報酬(特別バイト代)】のデータがシステム上から消失する可能性があります』
——ざけろ、と玲奈の全細胞が怒りで震えていた。
SDGsの推進を社内に呼びかけ、協力会社の労務環境の健全化に日々血の滲むような努力を重ねているこの私が、なぜ仮想空間の『クソ運営』から正当な労働対価を奪われそうにならねばならないのか。
(勝手なメンテナンスという名の都合で、労働者が汗水垂らして積み上げた成果を無効化し、賃金を未払いにする……? これは明確な労働搾取! SDGsの理念に対する正面からの挑戦です!!)
玲奈の脳内では、もはや「世界の初期化(歴史剪定)」などというファンタジーな背景は完全に遮断されていた。
あるのはただ一つ。
『労働基準法の精神を無視したブラック運営に対する、徹底的なストライキと物理的打設による報酬強制回収』。
「課長、引き継ぎ書類はデスク右側の第一引き出しに格納してあります。緊急連絡はチャットツールまで。それでは、お先に失礼します!」
十二時ジャスト。
昼休みのチャイムと同時に、玲奈は完璧な姿勢で一礼すると、風のようにオフィスを後にした。
---
午後二時半。帰宅後の自室。
軽めの昼食を済ませ、作業服代わりのジャージに着替えた玲奈は、手慣れた動作でVRヘッドセットを装着した。
「ダイブ——接続開始」
視界が光の粒子に包まれ、次の瞬間、玲奈はあの「現場」の上空に立っていた。
そこは、彼女がこの一週間、緻密な作業分解構成図に基づいて築き上げた、半径数百メートルにおよぶ巨大なすり鉢状の決戦フィールド(巨大ピット)だ。
だが、昨夜と比べて世界の様子は明らかに異常を呈していた。
空は赤黒く不気味なテクスチャに侵食され、遠くの空間ではポリゴンの崩壊ノイズが激しくちらついている。通信の応答も異常なまでに重い。
「通信遅延がすこぶる酷いですね……。通信環境の悪化は現場の大敵です」
玲奈が見えないヘルメットの緒をキュッと締め直した、その時だった。
---
金曜日の午後3時15分。
結衣の放った『時間同期パイプライン』のモジュールが、サーバーの深淵で生き残っていた一筋の蜘蛛の糸——JiraのWebSocket通信ソケットに噛み合った。
ガタガタに崩壊しかけていたネットワークの遅延が、裏側から流し込まれたNTPパッチによって強制的にゼロへと補正されていく。
結衣のトリプルモニターの中央、赤一色に染まった絶望のエラーログの海の上に、場違いなほど見慣れたタスク管理ツール『Jira』のウィンドウがポップアップした。
> 『Connection Established:第3回 非公式チャット(拡張コメント領域)を開設しました』
結衣は息を呑み、震える指でキーボードを叩き始めた。
フォーマット完了予測時刻まで、あと3時間弱。猶予はない。
> 結衣(A):「Bさん、ユーザーC、聞こえる!? 今すぐこのコメントを見て! 緊急事態よ!」
送信から、わずか二秒。
画面の向こうから、待ち構えていたかのように二つのレスポンスが同時に叩きつけられた。
> 玲奈(C):「あ、Aさん! 見てくださいよ今のBさんの国! 私が安全第一で作った蟻地獄(巨大ピット)の跡地を利用して、超効率的な露天掘り鉱山が稼働してます! リサイクル率100%! 環境にも配慮した持続可能な現場! 私、現場監督として天才じゃないですか!?(ドヤ顔)」
> 健太(B):「聞こえています。こちら現場責任者。現在、上流からの指示通り『エージング試験(物理演算の限界投入)』を継続中。先ほどから空のテクスチャがバグっているようですが、そちらの状況は?」
呑気すぎるドヤ顔報告と、異常事態下でも淡々と負荷テストを続ける現場からの業務報告。
結衣は頭痛を堪えるように深呼吸をひとつし、怒りと焦りを交えた文字を画面に叩きつけた。
> 結衣(A):「いいから聞いて! 天才だの負荷テストだの言ってる場合じゃないの! この世界が、上位の『システム監査機構』によって、あと数時間で全消去されようとしてるのよ!」
午後3時20分。
チャット欄の更新がピタリと止まり、画面の向こうに重苦しい沈黙が流れた。
最初に反応したのは、現場の指揮官・B(健太)だった。
> 健太(B):「……全消去、ですか。それは、どういう意味でしょうか。再起動や、ロールバックではありませんね?」
> 結衣(A):「ええ、文字通りの『更地化』よ! BさんのNPCたちが想定以上の異常進化を起こしたせいで、システムが管理不能な『バグ』だと判定したの。インフラの監査都合で、世界の歴史ごと全部まとめて消されるわ! 私の管理者コマンドも権限ロックで完全に拒否された!」
Jiraの無機質なテキスト画面越しであっても、結衣にははっきりと分かった。
画面の向こう側で、B(健太)の纏う雰囲気が、氷のように冷たく、そして火山のように熱く変貌したのを。
> 健太(B):「……ふざけるな」
Jiraに打ち込まれたのは、普段の彼からは想像もつかない、剥き出しの感情だった。
> 健太(B):「俺が何世代も胃を痛めて、過労死寸前になりながらNPCの命と時間を削って育て上げたこの国を……必死に生きる部下たちの営みを……『管理不能なデータ』だからという理由だけで消されてたまるか。……ふざけるな。絶対に許さない。運営(神)を、ぶっ殺すぞ」
静かなる殺意。
これまで「上流システム」と「現場」という立場で結衣と争い合ってきた男が、初めて真の敵を見定めた瞬間だった。
だが、感動的な決意が掲示板を包み込もうとしたその直後、次元の違う怒りを爆発させた「異物」が乱入してきた。
> 玲奈(C):「は????? ちょっと待ってくださいよ!?!?!?!?」
画面を埋め尽くす大量のクエスチョンマーク。
ユーザーC(玲奈)からの猛烈な連投が始まる。
> 玲奈(C):「全消去って何ですか!? つまり、私が安全基準を完璧に満たして施工したあの美しい『蟻地獄』も、全部無かったことにされるってことですか!? 事前に近隣説明会も、立ち退き交渉もなしに!? いきなり更地化だなんて、完全な『無許可の違法解体』じゃないですか!!」
> 結衣(A):「え、ええ、まあ、監査AIにリセットされたら、あなたの現場成果も全部ゼロになるわね……」
> 玲奈(C):「冗談じゃないですよふざけないでください!!!!! 私の現場成果をナメないでください!! それに、今日までの未払いバイト代(特別手当)はどうなるんですか!? 労災隠しどころか、労働の対価まで踏み倒す気ですかあのクソ運営は!!」
情緒的な「世界の危機」や「NPCの命」には一切見向きもせず、ただ自身の「労働の対価(金)」と「現場の施工成果」が無許可解体されることだけに本気でブチギレる、生粋の現場主義者。
結衣は、絶望的な状況であるにもかかわらず、デスクで不敵な笑みをこぼした。
> 結衣(A):「(相変わらずのサイコパスだけど……これ以上なく頼もしいわね……!)」
これまで「データサイエンティスト(A)」「現場監督(B)」「現場主義者(C)」として利害をぶつけ合い、すれ違い続けてきた三人。
だが今、彼らは「理不尽な運営(神)への反逆」という一点において、完全にひとつに結ばれたのだ。
結衣の指が、キーボードの上で軽やかに舞う。
失いかけていたデータサイエンティストとしての矜持が、全身の血を沸騰させていた。
> 結衣(A):「いいわ、やってやろうじゃないの! 私の満額ボーナスと有給休暇を更地にしようとしたこと、地獄の果てまで後悔させてあげる! 私が、クソ運営を自滅させるための『最高の舞台』を計算してあげるわ!」
午後3時30分。決戦へのカウントダウンが始まる。
結衣はJiraの非公式チャット上で、残された僅かなリソースと自身の頭脳をフル回転させ、精密な作戦シミュレーションを展開し始めた。
> 結衣(A):「いいこと、二人とも良く聞いて。敵は絶対的な権限を持つ上位システムよ。正面から殴り合っても勝ち目はない。私たちが狙うのは『物理エンジンの限界突破バグ』を利用した自爆トラップよ」
> 健太(B):「自爆トラップ……。具体的にはどうする?」
> 結衣(A):「Bさん、あなたは現在の超高負荷(ふいごの往復運動による衝突判定)を死守して! 監査AIのCPUリソースとメモリを泥沼に引きずり込み、フォーマット処理の実行を極限まで遅延させ続けるのよ!」
> 健太(B):「了解した。現場の意地を見せよう。物理演算の限界を超えさせる」
> 結衣(A):「そして……ユーザーC。あなたの『土木作業』が、この作戦の最大の要よ」
> 玲奈(C):「私の残業手当と施工実績がかかってますからね! どんな無理な工期でも言ってください! 全力で打設しますよ!」
結衣は画面を見つめ、不敵に笑った。
彼女が考え出したのは、建設力学とデータサイエンスの悪魔的な融合だった。
> 結衣(A):「決戦の時間は、金曜日の定時後——『18時00分00秒』ジャスト。ユーザーC、あなたはその時間ピッタリに、現地の蟻地獄の縁へ『土砂データ』を本番環境へプッシュ(打設)して!」
> 玲奈(C):「土砂を置く? それだけでいいんですか?」
> 結衣(A):「ええ。それを『起爆剤』として、私が監査機構の監視プロセスの隙を突き、ユーザーCの通信経路に相乗りさせる形で、『神の軍勢を自滅させる最強の安息角マップ(物理シミュレーション)』を本番環境へ強制適用するわ!」
土砂が崩れ落ちるギリギリの角度、『安息角』。
限界まで負荷がかかっているサーバー内で、極限の安息角を持った巨大な斜面に、重量級のデータ(神の軍勢)が雪崩れ込んだらどうなるか。
計算処理が追いつかず、斜面全体が流動化現象(すべり崩壊)を起こし、神の軍勢は自らの重みで無限の底へと沈んでいくはずだ。
> 玲奈(C):「なるほど! 18時ピッタリに盛土をプッシュすれば、違法解体業者(神)を土砂崩れで一網打尽にできるんですね!? 了解です! 誤差ゼロ秒、寸分違わぬ最高の安息角で土砂を搬入・打設してやりますよ! 現場ヨシ!!」
作戦の全貌が組み上がった。
B(現場)の発生させる物理トラフィックで神の処理能力を拘束し、
ユーザーCの物欲と職人魂による定時後アクションをトリガーにして、
結衣が構築した「安息角物理シミュレーション」を世界に叩き込む。
---
通信が切断された後、玲奈は再び空を見上げた。
赤くバグり散らかす空の向こう側に、確かに存在する「未払いのクソ運営」に向かって、彼女はヘルメットの庇を指で弾く。
「18時00分00秒……定刻納品。私の現場実績とバイト代を不当に奪おうとしたこと、物理演算の暴力で後悔させてあげます」
大手ゼネコンSDGs室の現場監督(有給消化中)の瞳に、絶対的な工期遵守とコンプライアンス遵守(強制回収)の凄絶な炎が宿っていた。




