第27話:システム警告と未払い賃金への怒り
木曜日の夕方、午後四時五十五分。
都内にあるオフィスフロア。玲奈は自席のデスクで、PCモニターに映る表計算ソフトのセルを無表情で見つめながら、脳内で正確なカウントダウンを刻んでいた。
本業である事務職のタスクは、三十分前に完璧なクオリティで完了させている。今はただ、十七時の定時を待つだけの消化試合だ。
他部署の電話の音や、上司の雑談をBGMに聞き流しながら、玲奈はデスクの下でこっそりとスマートフォンを開いた。
画面に表示されているのは、彼女がライフワーク——いや、もはや本業以上に情熱を注いでいる『副業』の進捗を管理する、連動用コンパニオンアプリだ。
「よし……。昨夜のうちに仕込んでおいた第三区画の安息角の再計算、および土留め用の仮設オブジェクト配置、無事にサーバー側で処理が完了していますね。全体の進捗率は予定通り九十五パーセント。極めて順調です」
画面の向こう側に広がるのは、彼女がこの数日間、退勤後のプライベートな時間を使い、アバターの泥にまみれながら構築してきた巨大なすり鉢状の決戦フィールドだ。
元々は起伏の激しい荒野だったその場所は、玲奈の狂気的なまでの整地作業によって、美しい幾何学的なクレーターへと変貌を遂げている。
斜面の角度、土砂の摩擦係数、そして中心部へ向かって滑り落ちる際の物理演算の負荷。
そのすべてが、彼女の脳内で構築された緻密な作業分解構成図の通りに組み上がっていた。
あとは明日の金曜日、微調整を済ませてデータを確定保存するだけで、この大規模な「現場」は無事に納品となり、莫大な特別バイト代が振り込まれる手はずとなっている。
「帰ったらすぐにログインして、地盤の最終チェックですね。ふふ、完璧な工程管理……」
口元に微かな笑みを浮かべ、スマホを鞄にしまおうとした、その時である。
『ピコンッ』
マナーモードに設定されたスマートフォンが、玲奈の掌の中でけたたましく振動した。
ロック画面を覆い尽くすように、無地のシステムダイアログがポップアップする。ゲーム内のフレンドチャットやギルド通知などではない。運営やシステム側から直接送られてくる類の実務的なアラート画面だ。
「……ん? システム警告? このタイミングで?」
玲奈は周囲の目を盗み、画面をスクロールしてテキストの全容を目で追った。
> 【重要:未承認オブジェクト処理に伴うシステム警告】
> 現在、該当インスタンスにおいて環境不整合の調査が実施されております。
> 次回定期メンテナンス(金曜18時)の時点で、ユーザーによる新規データの確定保存が確認できない場合、未払いとなっている【建築作業報酬(特別バイト代)】のデータがシステム上から消失する可能性があります。
> 【推奨対応】
> 金曜18時00分までに、現地にて任意の地形オブジェクト(土砂等)を設置し、データの生存フラグを更新してください。
――静寂。
ざわめくオフィスの喧騒が、玲奈の耳から遠ざかっていく。
彼女は瞬きを二回ほど繰り返し、もう一度、テキストの最も重要な部分だけを脳内で反芻した。
『未払いとなっている【建築作業報酬(特別バイト代)】のデータがシステム上から消失する可能性があります』
ピシリ、と。
玲奈の脳内で、何かが決定的に断裂する音がした。
「…………は?」
スマホを握る手に、ギリリと力がこもる。
オフィスに似つかわしくない、冷酷で凪いだ表情。それは、理不尽な仕様変更を突きつけられた現場監督が、クライアントの首を物理的に絞めるかどうかを真剣に検討し始めた際の、極めて危険なサインであった。
(……つまり、どういうことですか? 環境不整合の調査? 知ったことではありません。私がこの数日間、プライベートの時間を削り、完璧なWBSを組んで整地したこのデータが、明日の十八時までにプッシュされなければ……私の『バイト代』が消滅する、と?)
このメッセージは、システム管理側に回っているユーザーAが、玲奈の性格を完璧に把握した上で送りつけた『偽装メッセージ(ダミーアラート)』であった。
世界の危機だの、神の軍勢の歴史剪定だの、そんなファンタジーめいた理由を並べ立てても、この狂える現場主義者は「仕様外のタスクはお断りします。私は夕方五時以降のバイトなので」と一蹴するだろう。
しかし、『報酬(バイト代)が未払いになる』というワードさえ提示すれば、彼女は自発的に、かつ完璧に指定時刻への「納品(攻撃)」を実行する。結衣のその読みは、恐ろしいほどに的中していた。
『キーンコーンカーンコーン……』
十七時ジャスト。
オフィスの終業チャイムが鳴り響いた瞬間、玲奈はバネ仕掛けの人形のように勢いよく立ち上がった。
「お疲れ様でした!!!」
周囲の同僚が驚いて振り返るのも構わず、彼女は鞄をひったくりオフィスを飛び出した。
「タダ働き!? この私の完璧な整地作業を、システムの都合で無給にする気ですか!? 勝手にメンテナンスの時間を設定しておいて、それに間に合わなければ今までの作業量と報酬を全損扱い!? どこのブラック企業ですか!! 労働基準監督署に駆け込みますよ!?」
駅へ向かって猛ダッシュしながら、玲奈の脳内は怒りで沸騰していた。
彼女の怒りのベクトルは、完全に「不条理なシステム管理者(という架空の敵)」へと向いていた。世界の行く末? 環境不整合? 知ったことではない。
彼女にとって最も許しがたい大罪、それは「労働に対する正当な対価の未払い」である。
満員電車の中で息を整えながら、玲奈は上司宛にメッセージを送信した。
『急な体調不良につき、明日は午後から半休をいただきます。午前中に引き継ぎ資料は提出します』
これで明日の金曜日は、十五時には確実に「現場」へ入れる。
デッドラインは明日の十八時。万全を期すなら、早めにログインして最終調整を行う必要があるからだ。
「……上等です。金曜の十八時ジャスト。そこがデッドラインであり、生存フラグの更新タイミングなんですね。やってやりますよ。私の進捗管理スケジュールと現場の執念を舐めないでください」
帰宅後。
スーツを脱ぎ捨てるなり、玲奈は手洗いうがいよりも先にVRデバイスを被り、仮想空間へとダイブした。
夕日に染まる、広大なすり鉢状のクレーター。
作業着姿のアバターで現場に降り立った玲奈は、インベントリ(資材置き場)のUIを開き、猛烈な勢いでコンソールのホログラムキーボードを叩き始めた。
システム推奨対応には『任意の地形オブジェクト(土砂等)を設置』とある。普通のプレイヤーなら、その辺の石ころ一つでも置いてフラグを立てて満足するだろう。
だが、怒りに燃えるプロの現場監督の思考は違った。
「小石一つを置いた程度で、このクソみたいなサーバーが私の生存フラグを正確に読み取る保証はありません。通信ラグや処理落ちで『データが届きませんでした』なんて言い訳は絶対に許さない。システムの処理限界、その極限を突くような『特大の質量』を叩き込んで、物理的にコミットを強制認識させてやります」
彼女の瞳に、狂気的な職人魂の火が灯る。
玲奈が生成を開始したのは、明日使う予定だった土砂のデータを、通常の整地作業ではあり得ないレベルまで圧縮したオブジェクトだった。
土を固め、岩を砕き、砂を混ぜ込み、物理演算エンジンに多大な負荷をかける超高密度の『圧縮粘土塊』を錬成していく。
その質量たるや、推定数百万トン。
これを、明日の決戦フィールドの真上、遥か上空の座標にホバリング(仮置き)状態でスタンバイさせる。座標をX・Y・Z軸でミリ単位で指定し、固定コマンドを打ち込んだ。
「見ていなさい、クソ運営……。明日の十八時ジャスト、私の意地と執念の一括納品で、システムの不整合ごと物理演算の波でねじ伏せて、絶対にバイト代をもぎ取ってやります!」
木曜日の夜。
裏側で進行している「世界を救うための壮大なタイムアタック」は、一人の狂えるパートタイマーによる「意地でも未払い賃金を阻止するための、システムへの物理的ストライキ」へと、見事にその動機をすり替えられていた。
頭上で不気味な影を落とす、山のような質量の粘土塊を見上げながら、玲奈は見えないヘルメットの緒をキュッと締め直す。
明日の金曜日、十五時。
有給を駆使して現場入りする彼女による、労働基準法という名の物理演算を乗せた、前代未聞の土木作業が始まろうとしていた。




