第20話:月曜朝のビジネスレスバと、すれ違う大義名分
月曜日の朝。
私は現実世界のオフィスに出社し、ひたすら無心で表計算ソフトのセルを埋める作業をしていた。
週末の平和な時間はあっという間に過ぎ去り、再び地獄のような労働の一週間が始まっている。憂鬱な定例朝礼を乗り切った私の脳内は、すでに半分ほど思考停止状態にあった。
だが、そんな退屈な本業の裏で、私は密かに一つのミッションを進行させていた。
メインモニターで真面目に仕事をしているふりをしながら、サブモニターのブラウザの隅っこ――上司からは絶対に見えない死角で、アルバイト用のプロジェクト管理システム『Jira』のタブをこっそりと開いているのだ。
やがて、PCの時計が【〇八時四十五分】を示した。
(よし、発動しましたね)
私は心の中で小さくガッツポーズをした。
金曜の夜に仕込んでおいたタイマー送信機能が正常に作動し、私が作成した「ダイナマイトを用いた風抜きスリットの造成」という報告チケットが、自動的に上流環境へと展開されたのだ。
ステータスはもちろん、鮮やかな緑色の【解決済】。
「ふふっ。これで今週のアルバイトのノルマは達成です。月曜の朝からいい仕事をした私、現場ヨシ」
誰にもバレないように口角を上げ、再びExcelの海へと戻ろうとした、その時だった。
『ピコンッ』
ブラウザの隅で、Jiraの通知アイコンが激しく明滅した。
送信から、わずか五分後のことである。
「……え?」
こっそりとタブを開いて確認した私は、目を疑った。
つい先ほど私が【解決済】にしたばかりのチケットが、上流の環境レイヤー担当者(ユーザーA:天宮)の手によって、強制的に【差戻】のステータスに叩き落とされていたのだ。
「うわっ、環境レイヤー担当の天宮さんから、朝イチで長文のコメントが飛んできましたよ……。月曜の朝からヒマなんですかね、この人」
私は周囲の目を盗みながら、その冷徹で理路整然としたコメントに目を通した。
> お疲れ様です。環境レイヤー(A)担当の天宮です。
> 本チケットの対応およびクローズについて、上流の気流ルーティング設計との整合性に不具合が検出されたため、確認させてください。
>
> 山脈部へのスリット造成により、北部からの気流が局所的に収束し、周辺セクターにおける「フェーン現象」、およびそれに伴う「砂漠化デバフ」の発生リスクが急増しております。
> 本件は環境全体のパラメータバランスに深刻な影響を及ぼすため、今後は事前共有およびコードレビュー無しの直接クローズ(Resolved)はお控えいただけますと幸いです。
> 本挙動の仕様変更について、一旦議論のステータスに戻したく存じます。
> ご確認のほど、よろしくお願いいたします。
「…………はぁ」
私は思わず、本業のデスクで深いため息をついてしまった。
完璧なビジネス文章の皮を被っているが、要するに「勝手なことをするな、仕様を元に戻せ」という強烈なクレームである。
だが、私はその内容を読んで、逆に呆れ果てていた。
(『フェーン現象』? 『砂漠化デバフ』? いやいや、何を言ってるんですかこの人は)
確かに、気流の変化による気象への影響はあるかもしれない。
だが、そんな数十日後に起きるかどうかも分からない気象シミュレーションの心配より、今すぐ山脈が横転して物理エンジンがクラッシュするリスクの方が、圧倒的に重大かつ緊急のはずだ。
(上流のアーキテクトって、これだから現場の危険性がわかってないんですよね。机上の空論ばかりで、目の前の危機が見えていないんですから)
「仕方ないですね。現場を知らない上流設計者に、土木工学の基本を教えてあげましょう」
私はキーボードに指を添えた。
前工程の無理解を正すため、そして自分の施工の正当性を証明するため。
ビジネスメールの皮を被った技術的アドバイス――すなわち、高度な『大人のレスバ』の開幕である。
私は金曜の夜にミネルヴァから授かった知識をフル活用し、一切の感情を排した、完璧に爽やかなビジネス敬語を打ち込んでいった。
> お疲れ様です! 構造物レイヤー(C)の玲奈です。
> 迅速なレビューとフィードバック、ありがとうございます!
>
> 天宮さんのご指摘された気流の影響について、環境側のシミュレーション結果を共有いただき大変勉強になります。ただ、構造物(山脈)の安全管理の観点から一点補足させてください。
>
> 初期配置されていた当該山脈オブジェクトですが、現行の質量および表面積に対し、北側からの風圧による『風荷重』への構造計算上の配慮が漏れている(未補強のまま放置されている)状態であることを確認しております。
> このまま運用を続けた場合、風上の応力に耐えきれず、山脈全体が『転倒モーメント』の限界を超え、地盤ごと横転崩壊する致命的な二次災害リスクがございました。
>
> そのため、今回はシステム崩壊を防ぐ安全第一を最優先し、応力を適切に逃がすためのスリット工事を施工させていただいた次第です。
> 次回の基本設計の際には、ぜひ風荷重の計算もインプットしていただけますと幸いです!
> 引き続き、現場ヨシで頑張りましょう!
>
> (添付:笑顔で指差し確認をする現場猫風カスタムスタンプ.png)
「ふぅ……。完璧です」
私は送信ボタンを押し、そのまま流れるようなマウス操作で、チケットのステータスを再び【差戻】から【解決済】へと強引に叩き込んだ。
「私がちゃんと構造計算に基づいたアドバイスをしてあげたんだから、次からは図面と風荷重をしっかり読んでから発言してほしいですよねー。まったく、前工程のミスの面倒を見るのも下請けの苦労ですよ」
私は「今日もいい仕事をした」と満足げに頷き、Jiraのタブをそっと閉じた。
これ以上、不毛な議論を続けるつもりはない。現場の安全はすでに守られたのだから。私は清々しい気分で、再び本業のExcel作業へと戻っていった。
――この直後。
三百年後の未来レイヤーにおいて。
玲奈からの「次回の基本設計の際には、ぜひ風荷重の計算もインプットしていただけますと幸いです!」という、この上なく丁寧で上から目線な煽り文句を受け取った天宮結衣が、
『土木基準法で大陸を作るなァァァァァッ!!』
と、血涙を流しながら絶叫することになるなど、今の玲奈は一ミリも知らない。
お互いに完璧なマナーの敬語を使いながら、前提としている世界観が宇宙規模で噛み合っていない「すれ違いレスバ」がここに成立し……。
怒りのあまり胃薬をボリボリと貪り食った未来の天才アーキテクトが、玲奈という規格外のバグ要因をシステムから弾き出すため、強固な【入力値検証】の構築に狂ったように着手し始めたことを。
読者の皆様、お疲れ様です! 構造物レイヤー(C)担当の玲奈です!
というわけで、第7セクターにおける防風スリット造成工事、ならびに上流レイヤーとの『Jira』を介した仕様調整(完璧な大人のビジネスレスバ)をもちまして、無事に【フェーズ2(第一部)】が完結いたしました!
いやー、前工程の天宮さんにも構造計算と風荷重の重要性をしっかりインプットしてあげられましたし、バール一本での緊急施工も怪我なく無事故で完了して、まさに「現場ヨシ!」な着地ですね。バッグの隅に転がっている黄金の嘴(解体現場の有価物)も、そのうち何かの役に立つでしょう、たぶん。
さて、ここで施工現場からひとつ【重要なお知らせ】がございます。
次回【フェーズ3】の連載再開ですが……【お盆明け】からとさせていただきます!
現場作業員だって、お盆休み(夏季休暇)はしっかり確保して有給を消化しないと労働基準法に抵触しますからね! 月曜朝の出社に怯えることなく、冷房の効いた部屋で冷たいいちごみるくを飲みながら、ゆっくりと羽を伸ばして英気を養わせていただきます。
厳しい暑さが続いておりますので、読者の皆様も水分・塩分補給を忘れずに、熱中症にはくれぐれもお気をつけくださいね。
それではお盆明け、さらにパワーアップした(そして上流工程から強固なセキュリティを仕掛けられた)施工現場でまたお会いしましょう!
本日も一日、安全第一で——現場ヨシ!




