第19話:金曜夜の居残りパトロールと、大義名分という名の建前
金曜日の夜。
現実世界における一週間の過酷な本業を無事に終え、自室のベッドにダイブした私の心は、この上ない解放感と安堵に包まれていた。
木曜日の夜、定時退社という絶対目標を達成した後に駅前で貪り食った大盛りの唐揚げ定食。あの衣のサクサクとした暴力的なまでの食感と、噛むたびに溢れ出す肉汁のコンボが、平日の労働ですり減っていた私のメンタルを完全に修復してくれていた。やはり、労働の後の肉と油に勝る特効薬はこの世に存在しない。
「ふぅ……。今週もよく生き延びました、私」
パジャマ姿のままベッドの上でゴロゴロと寝返りを打ちながら、私は深く息を吐き出した。明日は待ちに待った土曜日。目覚まし時計をセットせずに泥のように眠る権利が、今の私にはある。
しかし、完全に意識を手放す前に、ふと脳裏をよぎった懸念事項があった。
(……待って。あの風穴の事後報告書、まだ提出してないですよね)
木曜日の夕方、定時退社をキメるためにバール一本で強行突破した第7セクターの『防風スリット造成工事』。現場の安全は完璧に確保したし、気流も安定させた。物理的な作業はすべて完了している。
だが、社会人としての仕事は「現場の作業が終わったら完了」ではない。上流工程である環境レイヤーの担当者へ向けて、プロジェクト管理システム『Jira』で完了報告を行って、初めてひとつのタスクが終わるのだ。
「月曜日の朝に回したら、絶対面倒なことになりますよね……」
私は天井を見上げながら呟いた。
この作業は、あくまで私にとって「割のいいアルバイト」でしかない。月曜日の朝といえば、本業のオフィスでは地獄の定例朝礼や、週末に溜まりに溜まった未読メールの処理で殺気立っているのが常だ。
そんな戦場のど真ん中で、アルバイトの別プロジェクトのJiraチケットをちまちまと書いている余裕などあるはずがない。後ろを上司が通りがかるかもしれない職場で、こっそり報告書をでっち上げるなんてリスクが高すぎる。
「月曜朝の自分を救えるのは、金曜夜の自分だけ……。今のうちに報告書を仕込んでおくのが、デキる下請けのライフハックです」
私は重い腰を上げ、冷蔵庫へと向かった。
扉を開け、買い置きしてあった紙パックの「いちごみるく」を取り出す。ストローをぷすっと刺して一口吸い込むと、甘ったるいミルクとイチゴの風味が口いっぱいに広がり、疲れた脳みそに糖分が染み渡っていく。
「あまーい。最高です」
いちごみるくをちゅうちゅうと吸いながら、私はデスクに置かれたコンソール機器を手に取った。頭にVRゴーグルをすっぽりと被り、電源を入れる。
作業環境への再ログイン・シーケンスが走り、視界が現実の少し散らかったワンルームから、広大なデータの世界へと切り替わった。
「おはようございます、ミネルヴァ。夜間だけど」
『システム正常。ユーザーC、環境への再接続を確認しました。現在の第7セクターの天候データは安定しています』
「ありがとう。まずは現場の最終確認ですね。報告書に添付する証拠画像を残さないと」
私は作業用ヘルメットを被るような感覚でインターフェースを調整し、昨日作業を行った第7セクターへとダイブした。
夜間モードの第7セクターは、静寂に包まれていた。
星明かりに照らされた岩肌は美しく、私が初期装備で強引に抉り開けた直径三百メートルの風穴は、まるで天地創造の初期からそこにあったかのように、見事に周囲の自然環境と馴染んでいた。吹き抜ける風も心地よく、荒れ狂っていた気流は完全に制御されている。
「うん、構造的な歪みもなし。気流データも計算通り。完璧な仕上がりですね」
私はスリットの断面をなぞりながら、視覚データをキャプチャして『施工後エビデンス』としてフォルダに保存していく。
机上の空論だけで完了報告書を書くなんて、まともな施工管理者のやることではない。現場の状況をこの目で最終確認し、安全第一を証明する写真を添付してこそプロの仕事というものだ。
現場をぐるりと一周し、異常がないことを確認して帰ろうとしたその時だった。
「……ん?」
ふと、岩陰のあたりで何かが怪しく金色に光っているのが目に留まった。
そこは昨日、凄まじい気流の渦に巻き込まれた『やたらとデカい鳥』が、ただのポリゴンゴミとして吸い込まれ、掃き清められていった場所だった。
私は歩み寄り、しゃがみ込んでその光る物体を拾い上げた。
手のひらにすっぽりと収まるサイズの、鈍い黄金色をした奇妙な結晶体。よく見ると、それは鋭く湾曲した『鳥の嘴』の形をしていた。触れると微かに脈打つような熱を帯びており、極めて高密度なデータを内包していることが直感的に理解できた。
「ミネルヴァ、これ何かしら? 昨日のデカい鳥の死骸の残り?」
『解析完了。該当オブジェクトは【神風の嘴(高密度Etherコア)】です。本来であれば、該当エリアに設定された巨大敵対性プログラムが、正規の討伐プロセスを経て撃破された際に、数パーセントの極低確率でドロップする希少素材です』
「討伐プロセス……?」
『はい。多数のユーザーが連携し、長時間の戦闘行動の末に得られる報酬アイテムです。しかし、昨日の強引な物理演算(落下即死およびシステム外の消滅判定)に伴い、システムがドロップ処理のプロセスを正常に完了できず、結果として現場に直ドロップという形で残存した模様です』
無機質なミネルヴァの解説を聞き、私はいちごみるくを飲み込みながら目をパチクリとさせた。
「へぇ……要するに、解体現場のスクラップの中に混ざってたレアメタルみたいなものですね。昨日の鳥、一応レアな素材を持っていたんだ」
私は黄金の嘴を指先でくるくると回した。
ゲーム的な価値はよくわからないが、私にとっては現場の床に落ちていた有価物程度の認識だ。わざわざ捨てる理由もない。
「ま、掃除中に見つけた遺失物として、一応拾っておきましょう。何かの役に立つかもしれないし」
私はそれを作業用バッグの奥底に無造作に放り込んだ。
現場は異常なし。エビデンス画像も確保したし、思わぬ拾い物までしてしまった。
あとは、この完璧な工事内容を上流工程(環境レイヤー担当)に報告し、タスクをクローズするだけだ。
「よし、現場ヨシ! 帰って報告書を書きましょう!」
私は清々しい気分で現場を後にし、自室のコンソール環境へと帰還した。
自席に戻った私は、液晶画面に他レイヤーとの仕様調整用に使用しているプロジェクト管理システム『Jira』を展開した。
未処理のタスク一覧から、今回の第7セクターにおける山脈対応のチケットを新規作成する。
さて、ここからが社会人としての腕の見せ所だ。
私は画面の横で待機しているミネルヴァに声をかけた。
「ミネルヴァ、木曜日の作業報告書を書きたいんですけど。素直に『定時で帰りたかったんで、邪魔な山をバールでぶち抜きました』って書いたら、前工程の上流の人に怒られますよね?」
『肯定します。上流のシステムアーキテクトから、設計思想を無視した破壊行為として重大なクレームに発展する確率が九十九・八パーセントです』
「ですよねー。あの上流の人、なんかこだわり強そうだし。……じゃあ、私が『現場の安全を守るために仕方なくやった』っていう、誰もが納得するいい感じの言い訳を考えてください。いつものように、ミネルヴァフィルターを通して大人のビジネス文章に翻訳してくれますか?」
私が頼むと、ミネルヴァは数秒の演算ののち、即座に完璧な「建前」を提案してきた。
『提案。対象の山脈オブジェクトに対する構造力学的な脆弱性を指摘し、予防的措置として施工したと主張するロジックを構築します』
「構造力学的?」
『はい。初期配置された山脈の質量に対し、北側から吹き付ける強風の【風荷重】への配慮が漏れていると指摘します。このままでは風上の応力に耐えきれず、根元にかかる【転倒モーメント】が限界を超え、山脈が地盤ごと横転崩壊する致命的な二次災害リスクがあった、と定義します』
「てんとうもーめんと……?」
私はストローを噛みながら首を傾げた。よくわからないが、なんだかすごく専門的でプロフェッショナルっぽい響きだ。
「山が風で倒れるなんてこと、あるんですか?」
『物理エンジンに一般的な土木工学および建築基準法の計算式を強制適用した場合、理論上は「風による横転」というエラーを主張することが可能です。実際にはあり得ない事象ですが、報告書上の理論武装としては極めて強固です』
「なるほど! つまり『設計書に風対策が抜けてたから、山が倒れそうだった。だから私が直してあげた』ってことにするんですね! それなら私が感謝されるべきだし、完璧な大義名分です!」
私はぽんっと手を打った。ミネルヴァの翻訳機能は今日も冴え渡っている。
「よし、そのロジックでいきましょう! あと、バールで抉ったなんて書いたら野蛮だから、『ダイナマイトを用いた適正な緊急造成工事』ってことに変換しといてください。発破作業っぽくて現場感が出るので!」
『了解しました。ビジネスフィルターを適用し、上流向けの提出用フォーマットを作成します』
ミネルヴァが生成したテキストを、私は『Jira』の新規チケット起票画面にコピー&ペーストした。
【件名】
『既存の山脈オブジェクトにおける、風荷重に対する構造強度的脆弱性と、それに対する現場の緊急応急処置(スリット造成)について』
【内容】
初期配置されていた大陸中央の山脈について、構造計算上の致命的な脆弱性を発見したため、現場判断にてダイナマイトを用いた緊急の「風抜きスリット」の造成工事を完了しました。現場の安全は確保されました。安全第一、現場ヨシ!
「うん、我ながら完璧な起票内容です。これなら上流の人も『現場の的確な判断に助けられたな』と感心するはずです」
さて、起票内容の入力は終わったが、最後の仕上げが残っている。
「さすがに金曜の深夜に上流へ通知を飛ばしたら、『時間外労働で何やってんだ』って怒られるか、週末の間にログが流れて見落とされる可能性がありますからね。ここは賢く立ち回りましょう」
私は送信オプションを開き、タイマー機能(バッチ同期ホールド)をセットした。
設定時刻は、週明けの**月曜朝〇八時四十五分**。
これなら、本業のオフィスに出社して朝礼が終わる頃合いに、自動的にチケットが上流環境へデプロイされる計算だ。本業のデスクで冷や汗を流しながらコソコソとアルバイトの報告書を書く必要もなくなる。
「そして、上流のコードレビューなんて待っていられません。私の施工はすでに終わっていて、現場の安全は確保されているんですから」
私はプルダウンメニューをクリックし、チケットのステータスを自分自身の権限で強引に引き上げた。
未着手でも、|進行中《In Progress》でもなく、鮮やかな緑色のバッジ。
【解決済】。
コメント欄の最後に、にっこりと笑いながら指差し確認をしている「笑顔の現場猫風カスタムスタンプ」をペタリと貼り付ける。
「よし! これで月曜日の朝は、心置きなく本業の仕事に集中できますね! 今週もお疲れ様でした、私! 現場ヨシ!」
私は残っていたいちごみるくを一気に吸い尽くし、軽快なタイピング音とともにエンターキーを押し込んだ。予約送信のキューにチケットが吸い込まれていく。
これで私のタスクは完全に終了した。
VRゴーグルを外し、現実世界の自室へと戻る。
空になった紙パックをゴミ箱に放り投げ、私は再びベッドへとダイブした。明日は昼過ぎまで寝て、午後は近所のスーパーの特売日に行こう。そんな平和な週末の予定を思い浮かべながら、私は泥のような深い眠りへと落ちていった。




