第18話「18:30の定時退社(そして19:00の強制同期)」
【97%……98%……99%……】
ジリジリと進んでいた運命の進捗バーが、あと一歩というところでピタッと止まった。
時刻は、十八時二十九分四十秒。
定時退社の絶対防衛ラインまで、残り二十秒。
「……えっ?」
ピクリとも動かなくなった画面を前に、私の心臓がヒュッと嫌な音を立てて跳ね上がった。
嘘でしょ。なんでここで止まるの。
システム開発や重いデータのダウンロードにおいて、『99%で進行が停止する』という現象は、この世で最も心臓に悪いホラー映画よりも恐ろしい。下手なエラー落ちよりもタチが悪いのだ。
「ここで止まらないで! お願い、動いて! 私の晩御飯! 熱々の唐揚げ定食がぁぁっ!!」
私は空中に浮かぶコンソール画面にすがりつき、祈るような、あるいは脅すような形相で絶叫した。
あと一パーセント。そのたった一パーセントの未達が、私の今日の労働のすべてを水泡に帰し、地獄のサービス残業へと引きずり込む。
『警告。サーバー内のデータ適合処理において、一時的な遅延を検知』
無情にも、ミネルヴァさんの淡々とした合成音声が、私の絶望に追い打ちをかけてきた。
「ちっ、遅延!? この土壇場で何が起きているんですか!」
『回答。テスターによる非正規の物理的解体(スリット穿孔)により、約三百五十万ポリゴンの地形データが一度に消失。それに伴う気流シミュレーションの再計算がメインサーバーの処理能力を圧迫しています。完了予定時刻が変動中……十秒……三十秒……一分……』
「い、一分!? 却下です! そんなの絶対に認めません! 不要なバックグラウンド処理をすべて切って、計算リソースをこっちに回してください! 空のグラフィック描画なんて今はどうでもいいですから、とにかくこの『風穴』の確定処理を最優先で通すんです!!」
『推論。システムのビジュアル表現を一時的にダウングレードすることは、景観保護規約に――』
「規約より現場の命(定時)が優先です! いいから早く! このままじゃ私が餓死して労災になりますよ!」
私が半狂乱でわめき散らしたその時。
十八時二十九分、五十秒。
永遠とも思えるせめぎ合いの末――私の執念がシステム側の遅延をねじ伏せたのか。
『……描画リソースの制限を承認。気流計算を優先処理。――データ適合処理、正常終了』
ミネルヴァさんのアナウンスと共に、ピコンッ!という軽快な電子音が鳴り響いた。
進捗バーが鮮やかな光を放って【100%】を突破し、画面からふっと消え去る。
直後、私の視界を埋め尽くしていた真っ赤な【大炎上アラート】の嵐が、嘘のようにパッと全消灯した。
それだけではない。空中に浮かび上がっていた真っ赤な環境パラメーターの数値が、次々と美しいグリーン(正常値)へと反転していく。
私が力技で抉り開けた『直径三百メートルの風穴』が、システムに正式な『地形データ』として承認され、物理的に完全開通した瞬間だった。
ゴァァァァァァァァンッッ!!!
システムが風穴を『空間』として認識した直後、凄まじい爆発音が第7セクター全域に轟いた。
これまで欠陥山脈という無意味な壁に遮られ、行き場を失って溜まりに溜まっていた『超巨大な空気の壁(負圧)』が、新たに生まれた広大な逃げ道へと一気に殺到したのだ。
風穴を通り抜ける、超猛烈な圧縮気流。
それはまるで、巨大な掃除機が世界の空気を丸ごと吸い込むかのような、圧倒的な質量の暴力だった。
「うわあああっ!? 計算通りの風圧とはいえ、凄い勢い……ッ!」
私は大剣を地面に深く突き立て、嵐の夜の街灯にしがみつくようにして、吹き荒れる突風に必死で耐えた。
周囲を舞っていたバグの塵や、浮遊していた不要なポリゴンの破片が、すべてその巨大な風穴へと吸い込まれ、エリアの空気が一瞬にして一掃されていく。
その凄まじい大気の奔流の片隅で。
ただひたすらに一つの『悲劇』が静かに、そして誰にも気づかれることなく幕を開けていた。
『……え?』
隅っこの岩陰で膝を抱え、ただのゴミとして丸まっていた黄金の神鳥ガルーダである。
彼が身を寄せていた巨大な岩石オブジェクトごと、凄まじい解放気流の渦に巻き込まれ、ふわりと宙に浮き上がったのだ。
抵抗する術など、とうの昔に失われている。
翼を広げることすら忘れたかつての空の覇者は、まるで巨大な掃除機に吸い込まれるホコリの塊のように、凄まじい勢いで風穴の中心へと引きずり込まれていった。
『(キリモミ回転しながら)ア、アバババババッ!? な、なんという圧倒的な吸引力……! 神威すら及ばぬ、絶対的な物理の渦……!』
ぐるぐると視界が回り、己の体が世界の果てへと吹き飛ばされていくのを理解したガルーダの脳裏に、走馬灯のように過去の栄光が駆け巡る。
『我は空の王……! かつては天に雷鳴を轟かせ、幾千の勇者どもをその羽ばたき一つで地に伏えさせてきた、誇り高きエリアボス……! それが、それが何故、このような目に遭わねばならんのだ……!』
彼を打ち倒したのは、勇者の聖剣でも、大魔導士の禁呪でもなかった。
ただ『早く晩御飯を食べたい』と願う、一人の労働者の執念。
そして、彼女が『ばーる』なる工具を用いて開けた、ただの巨大な『換気口』である。
『ええい、認めん! 我は神鳥! このような、ただの風の通り道に吸い込まれて消えるなど、断じて認められるものでは――ぐわぁぁぁぁぁっ!!』
無慈悲なシステム(物理演算)は、かつてのボスのプライドになど一切の忖度をしない。
『やはり我は、あの魔王にとってはただの『塵芥』として、風に掃き清められる運命であったか……。せめて、せめて名をぉぉぉ……!!』
断末魔の悲鳴を上げる暇すら与えられず。
ガルーダは風穴を通り抜け、遥か彼方の空の果てへと、キラッと光る一筋の星になって吹き飛ばされていった。
そしてそのままエリアの果て(マップの境界)へ激突し、ポリゴンの塵となって完全消滅。
システム上は『落下ダメージによる即死』という、エリアボスとしてはあまりにも不憫で情けない、語り継ぐ者すら誰もいない最期だった。
もちろん、手元のコンソール画面で環境パラメーターの数値が安定するのを食い入るように見つめていた玲奈が、そんなボスのゴミ箱行きに気づくはずもなかった。
数分後。
荒れ狂っていた風の渦が完全に収まり、第7セクターには美しく静かな夕暮れが訪れていた。
狂っていた気流は風穴を通って穏やかに循環し、淀んでいた紫色の空は、美しい茜色の夕焼け空へと変貌している。
「ふぅ……。気流データ正常、風圧パラメーター正常、各種アラート全消去。これ以上の二次災害の兆候もなし」
私は安堵の吐息を漏らしながら、空中のディスプレイを次々と閉じていった。
『報告。第7セクターの環境パラメーターの正常化を確認。しかしながら、テスターによる非正規の物理破壊が行われた事実に変わりはありません。週明けの業務開始時に、速やかに『事後報告書』ならびに『仕様変更チケット』の提出を行うよう、強く推奨します』
ミネルヴァさんが最後までお堅い小言を並べてくるが、私はふふんと鼻で笑ってやった。
「わかっていますよ。大惨事になる前に、なんとか『防風スリット』が綺麗に機能してくれたんです。むしろ、前工程の欠陥設計を未然に防いで大炎上を鎮火させた私に、特別ボーナスを支払ってほしいくらいですよ。週明けにバッチリ『構造的欠陥の改善報告書』として、恩着せがましく提出してやりますから」
やり切った。
私の、汗と涙とバールによる一時間の激闘が、ようやく報われたのだ。
私は左手首の腕時計型インジケータを、誇らしげな気持ちで確認した。
時刻は――『18:30:00』ジャスト。
「よし、適合確認! 十八時三十分ぴったり! 今日の業務はこれにて終了です!」
私はヘルメットを被った現場作業員のように、夕日を背にしてビシッと腕を伸ばし、安全確認の指差しポーズをキメた。
「定時退勤、現場ヨシ!!」
私の高らかな宣言が、誰もいなくなった静かなエリアに響き渡る。
次の瞬間、私は一切の未練を残すことなく、光の速さで自発的ログアウトのコマンドを実行した。
私の意識は電子の海から急速に浮上し、ホカホカのご飯と熱々の唐揚げが待つ、愛すべき現実世界へと帰還していった。
場面は変わり、玲奈がログアウトしてから三十分後のこと。
未来レイヤーの中枢、サーバーの深層部において。
時刻が【19:00ジャスト】を回った瞬間。
他システム――すなわち、上流の開発・運用環境へとデータを反映させる【定期バッチ処理(自動同期)】が、静かに、そして機械的に発動した。
通常であれば、事前に承認された『仕様変更チケット』のリストに基づき、安全にテストされたデータのみが本番環境へとデプロイされるはずの処理である。
しかし、この時ばかりは事情が違った。
下請けのテスターである玲奈が、事後報告を盾にして『仕様変更チケットなし』で力技でぶち抜いた、あの「巨大な風穴(物理破壊の痕跡)」のデータ。
それが、上位の開発メインブランチへと、一切の忖度なく【強制上書き(デプロイ)】されたのである。
――ピコン。
――ピポポポポポポポポロッ!!
途端に、上位システム群の監視ログに、見たこともないような真っ赤な警告が連鎖的に点灯し始めた。
『警告(Critical):第7セクターメインオブジェクトにおける重大な物理欠損を検知』
『承認済みチケットID:【Null(該当なし)】』
『何者かによる非正規の、強引な物理的改ざんが行われました。システム構造の大規模な破綻を警告します』
『エラー! エラー! 緊急事態!』
何十、何百というシステムログが滝のように流れ、本来であれば静まり返っているはずの上流の開発環境に、けたたましい非常サイレンが鳴り響く。
突如として手元の環境の山脈に「謎の巨大な穴」が穿たれ、各所のシステムで原因不明のクリティカルアラートが鳴り響き始めたであろう、上流工程(前工程の担当者)の阿鼻叫喚の惨状。
書類仕事を後回しにして現場の安全を優先した代償は、時限爆弾となって見事に未来の開発部を直撃したのだ。
しかし、そんな未来のシステム部を襲った大パニックなど、今の玲奈には知る由もなかった。
現実世界の彼女はただ、湯気を立てる白いご飯と、カリッと揚がった熱々の唐揚げを前に、「今日もいい汗をかいたなぁ」と、一仕事終えた職人のような幸せそうな微笑みを浮かべているのだった。




